ケータイ辞書JLogosロゴ 豊田村(近世)


島根県>海士町

 江戸期〜明治37年の村名。隠岐国海士【あま】郡のうち。江戸期は幕府領松江藩預り地,貞享4年〜享保5年は幕府領大森代官所支配地。慶長18年の「豊田村検地帳」には,田方4町1反余で52石余,畑29町6反余で42石余,家数32とある。貞享5年「隠州記」によれば,村高95石余,うち田方4町1反余で52石余,畑方29町6反余で42石余。戸数33・人口185,牛18・馬5,手安船11・トモド船12,寺社は真言宗藤田山幸福寺・柳井姫大明神・大蔵大明神・月輪大明神・鹿島大明神。漁はタイ・イカ・ブリ・サバ・トビウオ・アワビ・雑魚。「天保郷帳」の村高は103石余。牧畑は日平牧・中牧・丹後牧・蔵田牧・長井牧で,4牧はいずれも他村との入会牧で,豊田村独自の牧畑は長井牧のみである。「東北ノ方海上三里去テ島後津戸村也,飛脚村次筋也」と記しているように,島後【どうご】と島前【どうぜん】を結ぶ公用便船が巡航した村で,巡検使および代官の赴任,帰任路は本土から知夫【ちぶ】を経て,別府・海士・豊田と島前を経由して豊田から島後の津戸または蛸木【たくぎ】に達し,さらに加茂または今津に舟航して,そこから陸路八尾の陣屋に赴いた(隠岐御役人御交替覚)。これは古代以来の公路で,島前から直接島後の西郷港には入港していない。これは奈良期に隠岐の員外官として来任した石川永年が今津東方の岩浜で投身自殺した後,彼の墓を国主塚(国司塚)とし今津に作り,その霊を慰撫した故事により,その後の公役人が今津沖を航するのを遠慮した故である。式内社と伝える奈岐良姫神社は通常は諾浦神社と記され,隠岐の各地にあるが,豊田のそれは本社である。海上安全を祈る神である。採草採貝業が早くから行われ,近世初期には長崎の潜水漁業が伝えられたが,海流の激しいこと,海水温度の低いことから潜水漁法は定着せず,「カナギ」と称する鉾突漁業が主流となった。明治4年島根県,同年鳥取県,同9年島根県に所属。「皇国地誌」には,田4町8反・畑38町5反・切替畑8町・山林120町,戸数69・人口359,牛59・馬5,200石以下荷船5・漁船98。奈岐良比売神社・鹿島神社および郵便取扱所がある。職業は,農漁業20・漁農業29・船乗6・工業7・鍛冶1・木挽業3・商業1。物産は牛5・竹1,500本・薪200貫・ノリを雲伯へ,スルメ1,000連・煎海鼠【いりこ】40斤・アワビ50斤を長崎へ,ワカメ300貫・アラメ100貫を因丹但若へ,サバ6,000尾を若狭へ,藻葉3,000貫を伯耆へ送っていた。同12年豊田村と宇受賀【うずか】村が連合し戸長役場を豊田村に置き,同17年からは,海士・福井・豊田・宇受賀4か村が連合し,戸長役場を海士村に置いた。同34年の戸数78・人口342。豊田郵便局は同20年廃止。同37年海士郡内8か村が合併し,海士郡海士町が成立,海士村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7412999
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ