ケータイ辞書JLogosロゴ 湯町村(近世)


島根県>玉湯町

 江戸期〜明治22年の村名。出雲国意宇【いう】郡のうち。江戸期は松江藩領。村高は「大数録」に470石,「天保郷帳」に574石余。当地には制札場が置かれていた。村の中央を山陰道が,布志名【ふじな】村より当村を通り林村に入る。山陰道より分かれて,大原郡遠所【えんじよ】村に至る和名佐【わなさ】越えが,玉湯川に沿って玉造村に入る(意宇郡誌)。7代藩主松平不昧の時代に,殖産と堤防を竪固にするために,玉造川土手にはハゼの木が植えられていたが,明治期になって桜に植え替えられ,桜の間にわずかに残っているのみである。産業は農業が主であるが,ほかに漁業もある。花崗岩質粘土は出雲焼(湯町焼)の原料となる。「雲陽誌」によれば湯町八幡宮は玉造村の項に記されており,神行流鏑馬又十七屋敷という神事があった。また同社には,寛永2年10月16日の堀尾家八幡宮神田坪付の文書,寛文2年5月11日の玉造八幡宮修理免許状,元禄4年8月16日の遠藤繁利風折烏帽子裁許状が残る。当社の神官遠藤家は,佐太大社の配下にあり,出雲三郡半の社頭組織で意宇郡西半の幣頭職を世襲していた。寺院は,真言宗大覚寺派養竜山報恩寺・曹洞宗洞光寺末心願山蓮光寺がある。報恩寺で松江藩による南学教導所が開かれていた。明治4年島根県に所属。同6年蓮光寺に湯町小学校開校。同14年新築し,同15年より初・中・高の3科が置かれた。同20年校名を意宇郡第11番区湯町小学校と改称。同8年面白【おもじろ】村と合併,同22年意宇郡湯町村の大字湯町となる。同年の戸数75・人口383。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414250
最終更新日:2009-03-01




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