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- 四日市町(近世)とは
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![]() | 四日市町(近世) 江戸期~明治7年の町名江戸期は三国浦,明治4年からは坂井港のうち天和3年窪地で難渋のため,竹松村際から住民が三国湊の森町続きに移って町立てした(上西町記録・三国鑑)慶安年間には竹松村付近にすでに四日市橋が架けられており(橋本家文書・三国湊うしろ姿),町名は町立て以前の居所から継いだとも考えられる元禄12年当町居屋舗として高4反9畝20歩余,家数22(高持13・雑家9),または24軒(上西町記録)三国湊の東端に位置し,金津方面へ通じる金津道の三国湊出入口に当たり木戸があった平野口・岩崎口・木場口と並んで三国湊からの陸路における4つの出入口のうちの1つ江戸期の家数の増加はこの道に沿って東に延びたもので,町端には茶店もあった(三国湊新古名所記)また町並みに沿って南側には泓が連なっていた(三国浦一円絵図・三国湊一円分間図)明治初年頃も比較的に農家が多く(三国町史),これらの農家は町立てから続いた家々と考えられる元禄10年創立の住吉社があり,現在は7月29日が祭礼ほかに地蔵堂・十一面観音堂がある明治7年桜谷町の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」