ケータイ辞書JLogosロゴ 阿賀崎新田村(近世)


岡山県>倉敷市

 江戸期〜明治元年の村名。備中国浅口郡のうち。寛文4〜12年にかけ,松山藩主水谷勝宗は佐治三衛門を新田普請奉行として,柏島の北の里見川流域,および乙島の北の高梁川右岸一帯を干拓。当初,柏島の赤崎にちなんで赤崎新田と称し,延宝年間の検地で阿ケ崎新田,元禄8年の検地で阿賀崎新田村となった。はじめ松山藩領,遠江浜松藩領を経て元禄6年から幕府領倉敷代官所支配となる。「備中至宝記」では「赤崎村」と見え,村高2,016石余。「天保郷帳」2,031石余,「備中村鑑」2,031石余,「旧高旧領」2,032石余。干拓にあたって,汐止め用に築いた新町堤防は,羽黒山から柏島丸山まで長さ220間,幅は約30間,なかなかの難工事で,人柱の伝説も残る。完成した堤防には道路を通し,内側に問屋街,外側は荷揚場(のち倉屋敷)とした。問屋街は新町の名で呼ばれて大いに繁盛した。元禄元年には問屋数43。元禄年間が玉島湊の最盛期にあたり,安永5年には問屋数15と急減している。万治元年建立の羽黒大権現と天明元年創立の真宗高運寺がある。塾主横溝霍里の私塾が文政7年〜天保5年,寺子屋九皐舎・得英堂が安政年間〜明治5年に設置されていた。明治元年阿賀崎村と改称。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414420
最終更新日:2009-03-01




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