ケータイ辞書JLogosロゴ 県主保(中世)


岡山県>井原市

 鎌倉期〜室町期に見える保名。備中国後月【しつき】郡のうち。寛喜3年4月25日の後堀河天皇宣旨(門葉記/鎌遺4131)に無品尊守親王家門跡領諸国荘園5か所の1つとして,「県主保」が見え,当保は比丘尼観如相伝の私領で,尊守親王家(綾小路家)の門跡領として譲られ,同親王ののちは青蓮院門跡領となった。これは領家職で,嘉元4年6月12日の昭慶門院(憙子内親王)御領目録案(竹内文平氏所蔵文書/鎌遺22660)に大宮院(藤原姞子)領の1所として「県主」があり,給主は源恵僧正であった。この間,「経俊卿記」文応元年9月20日条(図書寮叢刊)によれば,大嘗会の斎場所並大嘗宮以下屋鳥居についての所役が当保に課せられていた。南北朝期になって,暦応3年7月12日の光厳上皇院宣案(華頂要略門主伝補遺)によれば,当保領家職が尊勝寺法花堂と青蓮院との間で和与中分されている。その後貞和5年3月28日には地頭の濫妨停止を命じた幕府引付頭人修理亮某奉書が出されており(同前),貞治5年9月23日には地頭斎藤基名と法花堂納所との和与状が出されている(青蓮院文書)。同状によれば,前年4月に尊勝寺法花堂雑掌と地頭基名との間で和与が成立,同5年9月19日には地頭請所の契約が成立した。請負額は毎年60貫文で,そのうち30貫文は暦応の中分に任せて青蓮院分とされている。永和元年に大嘗会が行われた際には備中国が主基を勤めたが,同年9月18日には,尊勝寺領である「県主郷」に大嘗会主基所小忌院木柴17丈を,国符が出たので,先例のように沙汰するよう命ぜられている(国立歴史民俗博物館蔵仲光卿大祀御教書)。応安3年7月11日の藤原康行・基繁所務和与状(前田家所蔵青蓮院文書)によれば,今度は青蓮院と地頭との間で相論があり,和与に至っているが,ここではこれ以前の永仁・貞治の下知に任せて60貫文のうち青蓮院分30貫文が再確認され,地頭康行の請分21貫110文,基繁請分8貫887文,下地は地頭の進止とされた。この和与は応安3年12月27日の室町幕府管領細川頼之下知状で承認されている(同前)。下って,宝徳2年9月の東岩蔵寺真性院雑掌言上状案(大覚寺文書)によれば,当保領家職は平安後期の康和年間以来尊勝寺法花堂領であったが,南北朝末期の後光厳院代に法花堂が破壊されたため,本尊や堂領を東岩蔵寺に移したという。ちなみに年月日未詳の観勝寺寺領目録(同前)には,堀川院御領の1所として当保が見え,後光厳院の寄附とされている。また応仁2年11月9日の県主保法花供料支配状があり,都合3貫文が賦課されている(大覚寺文書上)。この史料を最後に荘園領主側の史料は絶え,それに伴い,これ以降「保」とする史料も絶える。下って文明15年7月26日の「賦引付」(室町幕府引付史料集成下)に「県主庄門田村」と見え,寛正5年に江志修理進盛高という人物が河田重綱から,当地を担保として30貫文を借りている。また吉備津宮との関係については応永元年の記録を文禄5年に書写したといわれる吉備津宮惣解文(吉備津神社文書/県古文書集2)に後月郡4郷の1つとして「県主郷 堂供養請僧八人 平家次」と見える。また,戦国期に成立したと推定される年月日未詳同宮流鏑馬料足納帳(吉備津神社文書)には文明10年分として「弐貫文 あかたぬし ゑし殿分 路銭有」とか「壱貫文 あかたぬし 高岡殿分 路銭有」と見え,当地から吉備津宮の流鏑馬料足を納めていたことが分かる。保域は現在の井原市南東部小田川右岸,同市西方町・門田町付近に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414427
最終更新日:2009-03-01




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