ケータイ辞書JLogosロゴ 足守荘(中世)


岡山県>岡山市

 平安末期〜鎌倉期に見える荘園名。備中国賀陽郡のうち。郷名でも見え,葦守荘とも書いた。嘉応元年12月日の裏書をもつ神護寺領備中国足守荘絵図(神護寺所蔵/日本荘園絵図集成上)に「足守庄絵図」とあるのが初見。この絵図は,当荘の立荘もしくは寄進に際して,四至の牓示を明らかにする目的で作製されたものと考えられ,図上には5か所の牓示をはじめ,荘内を南流する大井川(現足守川),条里制を示す田,それを囲む藤木山・畏坂山・大横山・石畳山・吉田山・水田山・福岡山(現冠山)などの山や峰,あるいは半刀池などが描かれ,現在の地形を非常に忠実に表している。荘内には,八幡山上の八幡宮をはじめとして,清水寺・東福寺・吉福寺・王子堂・田福寺・三井寺・延寿寺など多くの堂舎が記されている。絵図の作製された翌年にあたる嘉応2年8月9日の備中国生石荘田堵賀陽清仲解(関戸守彦氏所蔵文書/平遺3553)によれば,当荘南隣の生石荘の田堵である賀陽氏が耕作していた当荘内の田畠の所当を弁済すべきことを約束しており,当荘は付近一帯に勢力を持っていた賀陽氏の手によって開発され,さらに,嘉応年間かそれ以前に賀陽氏が後白河上皇に寄進したと推定される。その後後白河法皇は,元暦元年に至り,当荘を京都高雄の神護寺に寄進した。同年と推定される10月18日の梶原景時書状(神護寺文書)は,高尾聖人(文覚)に宛て,宗先生宗資の所持する田地について「備中国足守郷を御知行之由,承之候,其内に相伝の所領・田畠を,別結解ニ可申請候也」と記している。同2年正月19日の僧文覚起請文(同前)によれば,当荘は安倍資良が私得分を神護寺の護摩堂に寄進し,そのことを聞いた後白河法皇が,一円の年貢を添え加えて神護寺へ寄進した荘園で,添え加えられた年貢は,法皇から文覚に寄進したものであるので,文覚はあらためて神護寺の薬師如来に寄進し直したという。これにより当荘は文覚の志した神護寺再興のための中核の寺領となった。文治4年7月24日の後白河法皇院宣(同前)によれば,当荘は神護寺領8か所の1つとして,役夫工米を免除されており,「後白河神護寺御幸記」(神護寺文書/大日料4-16補遺)によれば,同6年の後白河法皇の神護寺御幸に際して,当荘は若狭国西津荘と合わせて雑人料破子500合を賦課されている。建久10年4月6日の後鳥羽上皇院宣案(東寺文書)では,東寺長者延杲に宛てて,神護寺の寺務を任せ,寺領である当荘を知行するよう命じている。承久3年10月28日の安倍氏女起請文案(神護寺文書/鎌遺2854)は,前述の安倍資良の妻もしくは娘が書いたものと思われ,「あしもりのゆつりふミ,まいらせて候ハゝ」とあり,寄進後も安倍氏は当荘に対する権利(預所職か)を保留していたことが知られる。同4年2月10日の後高倉法皇院宣(神護寺文書)によれば,承久の乱の終息にともなって,「備中国葦守庄」をはじめ5か荘が神護寺に返付されている。嘉禄2年分を表記した年月日未詳の備中国足守荘田畠注進状(高山寺所蔵不動法裏文書)は,断簡であるが,唯一当荘の田地構成の分かるもので,田135町余のうち,吉備津宮領などの給田が32町2反余,定田が102町6反余などであり,定田のうち不作田・損田が59町余あったことが知られる。嘉禎元年10月16日の摂政九条道家御教書と同年10月26日の神護寺領大嘗会役免除状では,当荘をはじめ8か所の神護寺領の大嘗会役が免除されている(神護寺文書)。弘長元年8月17日の氏名未詳書状(同前)からは,当荘の地頭又代官末元の非法狼藉について,六波羅において訴訟が行われていたことが分かる。端裏書に文保2年とある9月28日の行忠請文(在印古文書/国会図書館貴重書解題4)では,70石の年貢のうち,半分を年内に,半分は来春に納入することを約束している。元亨2年と推定される閏5月26日の後醍醐天皇綸旨(神護寺文書/福井県史資料編2)では,当荘を含む神護寺領6か荘の役夫工米について,地下における譴責を停止し,京済にするように下知し,また元弘3年6月19日の同天皇綸旨(神護寺文書)でも,同じく6か荘を神護寺領として安堵する旨が伝えられている。その後,神護寺領として当荘に関する史料は見られない。鎌倉末期に著された「元亨釈書」巻29(国史大系)には,寛平8年のこととして,「葦守郷」に居住していた備中小掾賀陽良藤についての説話が載せられている。応永元年の記録を文禄5年に書写したという吉備津宮惣解文(吉備津神社文書/県古文書集2)には,賀陽郡11郷の1つとして「足守郷 農料代手作布百端 勝是守」と見える。文明2年5月20日の備中国吉備津宮右行事職田畠諸得分注文(吉備津神社文書)の中に,「一,足守算失五斗内二斗五升納候」と見える。永禄4年7月13日の吉備津宮庁宣(同前/県古文書集2)には,吉備津宮正宮上葺瓦祝に,当地の地頭が馬1疋を賦課されていることが知られる。荘内には,嘉応年間の絵図にも記されている足守八幡宮があり,その参道に建てられている鳥居には,康安元年10月2日の年紀と神主の賀陽重人の銘が刻まれている。荘域については,絵図に示されている四至から,様々な比定がなされているが,すべてが完全に特定されているとはいえない。その中で絵図に示された「未申牓示」は,地字や「備中国賀夜郡服部郷図」の検討などから,現在の下土田の中に比定され,生石荘との境と見ることができる。しかし絵図に見える大井荘との境の「藤木山」「畏坂山」,阿曽郷との境の「大横山」,備前国との境の「石畳山」は,現在この山名が残っておらず,それぞれ現在の深茂地区の字藤木付近,鍛冶山付近,六道峠付近,三井谷の奥の竜王山付近と推定され,これらを結んだ内側,つまり足守川左岸を中心とする岡山市下足守,同川右岸を中心とする上足守が主な荘域となる。絵図にも示されるように,現在も条里制地割遺構が残存している。なお絵図に記された「延寿寺」跡の発掘調査は,昭和53〜54年に岡山市教育委員会によって行われた。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414476
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ