ケータイ辞書JLogosロゴ 綾部郷(中世)


岡山県>津山市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。美作国苫東郡のうち。文暦2年9月9日の官宣旨写并左大史某外題写(美作古簡集註解)によれば高倉荘の四至に「東限綾部郷」とあり,高倉荘の東に接していた。なお,乾元2年と推定される2月25日の造内宮所条々事書(輯古帖/鎌遺21371)には「景宣申主殿寮領美作国綾部庄事」と当郷は荘園名で見え,主殿寮領であったことが知られる。延慶4年3月16日の中原俊茂譲状(師守記貞和3年4月記紙背文書/纂集7)によれば,当荘は周防宇佐木保とともに中原俊茂の相伝所領であったが,主殿寮に便補されたもので,ただし当荘は由緒がありながら理由なく国衙に付せられることもあったという。「建内記」文安4年9月28日条に引用された同年9月日の万里小路家雑掌某申状(古記録)に「美作国衙内綾部郷正税事」と見え,万里小路家領である当郷は,朝恩によって万里小路家が代々知行してきたが,応永年間に在地の武士と思われる石階氏が他所の替地と称して押領しようとし,代官赤松義則の申しひらきによって事なきを得たといわれる。足利義教の代になって石階氏が再び押領したが,代官赤松満祐が避り渡したともいう。ところが年貢の減少著しく,万里小路家の知行はほとんどできなかったらしく,その還付を願い出ている。同書同年9月21日条によれば,万里小路時房は飯尾加賀入道真妙のもとに使者を送り,そして同年11月9日条に「綾部郷事同憑入候也」と見える(同前)。室町期には赤松氏惣領(美作国守護)が国衙領である当郷の代官であったが,戦国期に入ると,「賦引付」(室町幕府引付史料集成下)によれば,「一石橋殿代〈同日(文明13年8月25日)〉 廿貫文〈文明五〉大河原弾正左衛門尉〈作州綾部郷代官〉」と見え,石橋(石階か)氏に対する債権者(銭主)大河原氏が当郷の代官として登場する。なお弘治3年5月14日の年紀を有する美作国献上記(美作古簡集註解下)の東北条郡6郷の1つに「綾部郷 銅六十両 上道是次」と見えるが,この史料は検討を要する。天文10年6月7日の津田家職書状(江見文書)によれば,浦上政宗の家臣津田家職が江見右衛門大夫に安堵した所領中に「作州綾部庄国衙分」と見える。なお「佐々木系図」所引の貞治3年3月26日の足利義詮下文(荘園志料下)によれば,佐々木義綱が将軍義詮から安堵された所領中に「美作国綾部」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414528
最終更新日:2009-03-01




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