ケータイ辞書JLogosロゴ 伊福郷(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。御野郡のうち。建久9年12月日の後鳥羽院庁下文写(東大寺続要録)の野田荘の四至に「北限公領伊福郷」とある。建仁3年7月日の備前国麦進未進納所惣散用帳(南無阿弥陀仏作善集裏文書)に「〈観アミタ仏〉伊福郷生阿弥沙汰十八石五斗四升六合」とあり,うち津納が14石7斗2升3合,未進分が3石8斗2升3合であった。寛元4年1月29日の菊万田地売券(金山寺文書/県古文書集2)に「伊福郷高山里〈十二ノ(坪カ)〉」の金山田2反が能米2石で末延御名所に売却されている。正応2年3月11日の金山寺免田下地和与状(同前)によれば,当郷内高山里には9反5代の金山寺免田があり,金山寺分5反15代(南寄)と久成名主分3反30代(北寄)とに下地中分され,正安3年11月18日には久成名主久吉相伝の所領であった前記の当郷内3反30代の田地は,直銭12貫文で金山寺遍照院に売却された(金山寺文書)。また正平6年11月4日の備前国目代下知状(金山寺文書/県古文書集2)によれば,「伊福郷内金山寺灯油免田」への地頭の違乱が停止されている。延文2年5月18日の中国管領細川頼之奉書(細川家文書)によれば,この頃「伊福郷南方地頭職」に関して小串性と広田信景の間で相論があったが,幕府は小串の訴えを認めている。また康暦元年8月27日の足利義満御判御教書(県史未収東大寺宝庫文書)によれば「伊福郷」が東大寺尊勝院に安堵されている。応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)にも「一,不及異儀,致沙汰在所分」の1つとして「伊福郷」の名が見える。下って永正10年11月26日の吉田盛久・道祐入道連署書状写(黄薇古簡集)には「伊福郷奥林村畠之事」と見える。また大永4年8月吉日の宇喜多能家画像行状(旧岡山市史2)にも「近頃明応六年,江州前司紀宗助,略地于備之伊福郷,軍不利退禦嶮」と見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414741
最終更新日:2009-03-01




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