ケータイ辞書JLogosロゴ 宇治郷(中世)


岡山県>岡山市

 南北朝期〜戦国期に見える郷名。上道郡のうち。延元元年5月5日の後醍醐天皇綸旨案(大宮文書)に「完治郷」とあるが,これはおそらく「宇治郷」の誤記と考えられ,春日社領荒野が当郷から分立したものであることが分かる。次いで,至徳4年10月11日の備前国宇治郷斗餅田年貢所納状(八坂神社文書)によれば,「うちの郷」より熊野山に斗餅田年貢400文が,同年10月29日の同年貢所納状(八坂神社文書下)では,同じく当郷の年貢700文が納められている。なお嘉慶2年12月日の熊野本宮領備前国散在斗餅田下地目録(八坂神社文書)には「宇治郷 壱町」と見える。応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)にも,「一,かたく支申在所」の1つとして「宇治□(郷)」が見える。嘉吉元年閏9月16日の室町幕府管領細川持之下知状(細川家文書)には「南都領備前国宇治郷〈赤松左馬助跡〉預所職」とあり,南都興福寺領であった当郷の預所職は,もと赤松則繁が有していたが,嘉吉の乱後,勲功賞として細川教春に宛行われ,同年10月5日の室町幕府管領細川持元奉書(細川家文書中世編/熊本県文化財調査報告23)で,教春代に沙汰し付けるよう山名兵部少輔に命じている。また享徳2年5月7日の室町幕府管領細川勝之奉書(同前)によれば,宝徳3年南都雑掌の訴えによって本所の「直務」となったが,享徳2年,細川常有(教春の子)は預所職の安堵を幕府に求め,これを認められている。下って,永正12年9月2日の東大寺東南院領目録(薬師院文書/東大史料影写本9)には「備前国……宇治郷」とある。また同13年7月13日の金光朝勝・国富重幸連署宛行状(平井文書/邑久郡誌)によれば,「宇治郷内抱分□拾八貫文」が平井与三に与えられている。現在の岡山市のうち旭川東岸地区にあたり,藤原地内に上宇治の小字が残る。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7414880
最終更新日:2009-03-01




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