ケータイ辞書JLogosロゴ 大井荘(中世)


岡山県>久米町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。久米郡のうち。郷名でも見える。「三長記」建仁元年7月26日条(大成)に「同(清閑寺法花)堂領美作国久米庄司与国司相論大井郷事」とあり,当郷が久米荘と隣接していたと推定され,院庁において当郷についての久米庄司と美作守藤原知家との相論の問注を命じている。正応3年と推定される6月16日のしるたに殿宛猪熊大納言(近衛兼教)家御教書(中村直勝博士蒐集文書/鎌遺17464)には「大井庄御知行候へきよし」と見え近衛家が当荘の知行権を有していたことが分かる。「建内記」文安4年6月記紙背文書(古記録)に,万里小路家領大井荘ほか5か所が称光上皇によって召し上げられたことが見え,時房は西園寺大納言(実種)を介して返還を求めたようである。永正18年と推定される4月15日の幻住庵宛江原佐次寺領支証施入状写(幻住寺文書/県古文書4)に「一,大井庄南方内一色村支証寄進状 数拾七通在之」とある。また,大永3年10月23日の幻住庵宛の大蔵久清・林久宗連署副状写(同前)に「大井庄南方内重松・包松両名諸納所」とあり,当地内の田畠が幻住寺に寄進されている。弘治3年5月14日の美作国献上記(美作古簡集註解下)に,久米北条郡六郷の1つとして「大井庄 鯛弐拾喉 篠原貞利」とあるが,同史料は検討を要する。天正9年5月28日の中村大炊助宛行状(同前)に「大井北方之内」とあり,武本又三郎に当地北方内の所領を宛行っている。なお北方は江戸期の油木北村付近と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415048
最終更新日:2009-03-01




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