ケータイ辞書JLogosロゴ 邑久郷村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。邑久郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。なお文禄4年12月吉日の宇喜多秀家黒印状(弘法寺文書/県古文書集3)によれば,千手山寺領として邑久郷内10石うち屋敷定米2石余・田畑107石余が与えられている。村高は,「領分郷村高辻帳」902石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,402石余。また「備陽記」によれば,高902石余,反別102町8反余,家数265・人数1,787,池16,船6,枝村に清野・内山・吉塔がある。西南部に幸島新田が干拓されるまでは,海に臨み,製塩も行われていた。溜池掛りであったが,幸島新田開拓に伴い大用水が開削され,分水の三番用水が利用できるようになった。道は牛窓往来が通る。享保9年邑久郷村・宿毛村と西片岡・上阿知両村などの9か村の間で大山の落葉・下草刈を巡る山論が起こり,藩から他村への入会禁止と御林内への入山日数が申し渡された(撮要録)。神社に松江伊津岐神社・麻御山神社・八幡宮がある。寺院は真言宗紅岸寺があったが,寛文年間の寺院淘汰政策で廃寺となった(撮要録)。文久年間に寺子屋練武堂が,また嘉永年間にも寺子屋が開設された。明治4年岡山県に所属。同5年の学制施行により27番松浦小学設置。同16年戸長役場設置。同22年太伯村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415298
最終更新日:2009-03-01




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