ケータイ辞書JLogosロゴ 長田荘(中世)


岡山県>加茂川町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。備前国津高郡のうち。文永5年2月2日の関東御教書(中世法制史料集1)によれば「備前国長田庄非御家人輩并凡下人買得領名事」とあり,式部十郎職綱の訴により非御家人・凡下等の当荘内買得を止め,もとのごとく職綱に安堵しており,職綱は当荘地頭職を有していたことが分かる。弘安10年4月19日の関東下知状(早稲田大学所蔵文書)に「最勝光院領備前国長田庄雑掌与当庄内建部郷地頭式部八郎右衛門入道妙光女子藤原氏代兼広相論所務条々」とあり,同年月日のもう1通の関東下知状(神田孝平氏所蔵文書)に「備前国長田庄雑掌与当庄賀茂郷内中村新山下賀茂地頭式部孫右衛門尉頼泰・靏峰河内村地頭式部左衛門二郎光藤・紙工保地頭式部六郎光高相論所務条々」とあることから,当荘内には建部郷・賀茂郷・紙工【しとり】保などがあり,荘内各地には備前守護を務めたこともある式部(伊賀)氏一族が郷地頭・村地頭として勢力を持っていたことがわかる。この訴訟では荘官職,検断,狩猟,本新田などについて争われた。同下知状や,弘長2年6月28日の六波羅施行状(同前)では,両者の進止を認める折衷的な裁決を下している。永仁2年11月11日の伊賀頼泰所領譲状案(飯野八幡宮文書)によれば,伊賀頼泰から光貞に譲った所領の1つに「一,備前国長田庄之内下賀茂村〈付 上下小山・やすいたう・つゝら坂〉者」とある。荘園領主は,嘉元4年6月12日の昭慶門院(憙子内親王)御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に室町院領として見える。嘉暦元年6月18日の前石見守繁成備前国長田荘本家職寄進状(古文書集5)によると,当荘は平安末期に冷泉局能子(建春門院平滋子女房)が建春門院の御願寺最勝光院に寄進して成立した荘園で,能子の持っていた領家職は押小路内親王,式乾門院,室町院を経て大覚寺統に伝わり,後宇多院から大金剛院に施入された。また同状によると,当荘の領主職は鎌倉中期以降,院北面である平邦繁から繁高へと譲られていたが,正安2年に室町院領が大覚寺統と持明院統とに分割されることとなった際に亀山院に同職を召放たれた。繁高の子繁成は諸方に訴訟を行っている間に当荘が大金剛院に寄進されたので,これを機会として訴訟を止め本家職を大金剛院に寄進する代わり,繁成らを領家職とする契状を賜るよう訴えている。また先掲関東下知状に「卿二品為領家之時」と見え,後鳥羽の乳母藤原兼子が領主だったとされるが,この「領家」とは領主職のことと推定される。嘉元3年7月26日の亀山上皇処分状写(亀山院凶事記/鎌遺22285)に「備前国長田庄〈二品一期可被免知行〉」とあり,当時は亀山院後宮の藤原寿子(二品)が領主職を与えられていたと推定される。なお同状によれば大金剛院へは蓮花峰寺寺用毎年3万疋のほかに最勝光院寺用・高野光台院供料などを本家役として納めることになっている。また後醍醐天皇は衰微していた最勝光院を復興するとともにこれを東寺に施入するが,正中2年3月日の最勝光院領荘園目録案(東寺百合文書ゆ)によると「領家室町院御分」として本来の年貢公事は72石,上絹15疋4丈,綿100両,綾13疋,白細美布26反,油1斗9升であったが,この頃には米3石,油1斗,絹3疋(代銭3貫文),綿100両,細美布26反(代銭1貫文)のみであったという。南北朝期の正平8年7月11日の後村上天皇綸旨(吉田黙氏所蔵文書)では「備前国長田庄内賀茂・建部両郷事」とあり,伊賀兼長・将泰・兼益・全法などの妨げを止め,蓮花峰寺に安堵している。応安4年最勝光院評定引付所収の10月3日の東寺最勝光院方年預亮忠書状(東寺百合文書る)によると,大覚寺年預に対し当年の本家分年貢を督促している。永和4年3月21日の大覚寺門跡寛尊法親王御教書(大覚寺文書)によると「備前国長田庄所務職事,宛行地頭伊賀美作四郎」と,当荘地頭伊賀氏に所務を宛行っている。なお明徳3年頃と推定される年月日未詳の某請文(古沽券状/国会図書館貴重書解題6)では賀茂・建部両郷の所務について「毎月廿五日以前五貫文可致其沙汰也」とあり,年間60貫文の請切りであった。また至徳元年11月3日の太政官牒(鹿王院文書)によると,一国平均役を免除されている宝幢寺領諸荘園のうちに当荘が見え,応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)では西御所(足利義満側室高橋殿)の所持分のうちに「長田庄」と見え,宝幢寺や西御所の所職の内容については不明。寛正5年7月15日の年紀を有する「京城万寿寺記」では万寿寺領のうち不知行地の中に当地が見える(群書24)。長禄2年最勝光院評定引付7月24日条(東寺百合文書け)に「一,長田庄之事,披露了」とあることから,この時期に至っても東寺の権利が存続していたことが知られる。「蔭涼軒日録」同3年10月15日条(続大成)に「同国(備前)長田庄河内村地頭職之事,自嘉吉二年伊賀山城押領」とあることから,その荘務権も伊賀氏の勢力に脅かされていた。文明4年11月4日の旦那売券(熊野那智大社文書2/纂集)によると,川関三郎左衛門は備前国の熊野社檀那を12年を限って売っているが,道者の在所として「長田庄こう其方ニモ候」とある。天正9年と推定される8月19日の毛利家重臣連署安堵状写(萩藩閥閲録)によると,伊賀家久に安堵された所領のうち「本地」として「一,長田庄」と見える。なお明徳2年11月日の年紀を有する秀倫寺鐘銘(日本古鐘銘集成)に「備前州津高郡長田庄中村牛頭山秀倫禅寺」とあり,天文18年3月23日の年紀を有する日吉山王社造営棟札(日吉神社文書/県古文書集4)に「備前国長田庄」と見える。荘域は現在の加茂川町全域から建部町西部,御津町北部にかけての地域と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415338
最終更新日:2009-03-01




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