ケータイ辞書JLogosロゴ 乙子村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。備前国邑久【おく】郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。村高は,「領分郷村高辻帳」43石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに456石余。また「備陽記」では,高543石余,反別30町9反余,家数78・人数504,船23。安永5年の邑久郡手鑑では,反別34町余,家数109・人数500,牛19,船22。「備陽国誌」には名産として鱠残魚の名があげられている。正徳2年金岡村漁民と漁場論争を起こし,藩の裁決の結果,6艘の操業が許可された(撮要録)。寛政年間には平井村・北浦村との間で白魚漁を巡る論争となり,藩から期限付きの禁猟処分を受けている(撮要録)。天和元年の定米上免之事に,乙子塩浜は東西560間・南北160間と見え,南面に幸島新田ができるまでは製塩も行われていた。用水は吉井川から取水した大用水の分水を利用。嘉永2年に寺子屋を開設。神社に乙子大明神がある。明治4年岡山県に所属。同5年の学制施行により31番小学を,同15年葭野小学校を設置。同22年太伯村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415384
最終更新日:2009-03-01




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