雄町村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。備前国上道郡のうち。もとは小町村と書いた(元禄郷帳など)。「吉備温故秘録」によれば,正徳元年から雄町と書くとある。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。村高は,「領分郷村高辻帳」729石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに817石余。また「備陽記」によれば,高729石余,反別43町6反余,家数61・人数332。当村は旧旭川の氾濫原にあたり伏流水が流れているため清水が豊富に湧出し,国内第一の井水・名水として知られた(吉備温故秘録)。この清水は藩主用として使用され,清水の番人が置かれていた。また,このような地形のため稲作には不適で,芹田とされ,「和気絹」には物産として当村の芹が記される。その後,安政6年岸本甚造によると伝えるが,稲の新品種が導入され,酒造米産地へ成長した。明治4年岡山県に所属。同5年の学制施行に伴い45番小学開校。同22年高島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415435
最終更新日:2009-03-01