ケータイ辞書JLogosロゴ 鹿忍荘(中世)


岡山県>牛窓町

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。備前国邑久【おく】郡のうち。永仁5年6月日の善法寺尚清処分状(石清水文書6/大日古)に「鹿忍」とあるのが初見で,当地は善法寺坊領分として尚清より子の入江通清に譲られている。次いで正安2年2月10日の秦末吉・嫡子則末田地沽券およびその案文によれば,「鹿忍御庄」内浦里の田地が牛窓住人惣五郎に売却され(本蓮寺文書),正中2年4月11日の僧隆祐田地沽券(安仁神社文書/県古文書集3)によれば,「鹿忍庄内安仁社大般若免」の田1反が「射越之道願御房」に売却されている。また元亨4年4月19日の備前国鹿忍庄下司・同豊原庄雑掌和与状案(同前)によれば,正応年間以来,鹿忍荘下司藤井氏と隣接する豊原荘雑掌の間で,「大山・千手・藤井・鵠浦」などを巡って相論が続いていたが,この年,藤井と鵠浦は藤井氏,大山と千手は豊原荘に付することで和与が成立している。南北朝期〜室町期には当荘内の多くの田畠が本蓮寺や弘法寺などに寄進されている。応安7年12月日の備前国弘法寺免田畠注文(弘法寺文書)には,当荘内の弘法寺免田畠3町3反余が書き上げられている。また永徳2年12月20日の僧性尊等連署寄進状によれば,「鹿忍御庄末弘名内山地」の畠1反が祐円大徳の遺言によって弘法寺如法経免畠として寄進されており,応永4年7月8日の弘法寺寄進田願主等回向文にも「実祐大徳」の寄進した「鹿忍」の田地1反が書き上げられている(弘法寺文書/県古文書集3)。文明元年10月8日の山田ノ吉末田地沽券(本蓮寺文書/県古文書集2)によれば,「鹿忍庄内奥浦」の田地1反が山田の吉末から「牛窓綾之浦住人石原新二郎」に売却されている。永正5年12月13日の馬場平右衛門尉長真寄進状(同前)によれば,「鹿忍山田村椿井里廿一坪吉末抱分」の田地1反が本蓮寺に寄進されており,同7年4月8日の馬場平右衛門尉長真寄進状でも「鹿忍庄池内村八幡宮灯油免畠友末屋敷前」に所在した畠地45代が同じく本蓮寺に寄進されている(同前)。なおこのときの「鹿忍庄本所分代官」は小笠原允康であったという。次いで永禄3年12月19日の石原宗太郎・円住坊日厳連署寄進状(同前)によれば,本蓮寺に寄進された「奥浦小島本」の田地の正税は「鹿忍庄内四郎丸名」に毎年50文納められることになっていた。また同13年8月22日の神兵衛入道隆香寄進状(同前)によれば,「かしのふとたはま」の田1反10代が本蓮寺に寄進されている。弘治2年6月3日の弘法寺六月会八講頭番差定写(黄薇古簡集)に「第三日〈鹿忍庄〉行久次郎左衛門方」とあり,永禄年間頃と推定される年月日未詳の弘法寺過去帳位牌次第(弘法寺文書/県古文書集3)にも当地出身と思われる「実能〈鹿忍〉」という人名が見える。さらに天正3年12月18日の鹿忍片山ノ太郎左衛門尉寄進状(同前)に「鹿忍片山ノ太郎左衛門尉」の名が見える。荘域は現在の邑久町上山田・下山田,牛窓町鹿忍・長浜にかけての地に比定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415524
最終更新日:2009-03-01




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