ケータイ辞書JLogosロゴ 鹿忍村(近世)


岡山県>牛窓町

 江戸期〜明治22年の村名。邑久郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。村高は,「領分郷村高辻帳」「備陽記」ともに793石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,289石余。「備陽記」によれば,枝村は子父雁・小里安,岡山京橋まで道程6里,同じく船路6里,反別132町余うち塩浜7町余,家数360・人数2,400,池38,小猟船から19端帆の船59。畑作中心の農業と泥質の海で雑魚を獲るくらいであり,牛窓村との間では漁場争論を繰り返していた。多くの漁民は塩田夫として働くよりほかなかった。塩田は古くから開発され,「備前名物記」に「備前国の内,浦々塩浜多しと雖も,邑久郡の内,鹿忍村にての焼塩宜し。外の所にては焼塩はにがりをさす故,不宜。鹿忍の塩には,にがりを不入して塩こまかにて名物とす。江戸へも大分廻る」とある。「撮要録」に「宝永六丑年,下役人改め,塩浜畝数七町四反三畝十八歩半,台数九百六十,釡屋五十五軒」とあり,他の塩田の多くが,江戸末期には田畑に変換されたのに対して,幕末には沖浜塩田も造成されている。鹿忍塩の販路は広く,大坂を第一の需要地とし,関東・北陸・九州に及び,江戸ではにがりを帯びない鹿角形印が人気をよび,池田家の江戸屋敷では鹿忍塩のみを常用したと伝えられている。西廻り航路によって日本海沿岸や蝦夷地に進出した者もいたようである。寛文8年には手習所が置かれ,生徒数32,野村九郎左衛門が宝光寺室生坊跡を利用して指導にあたった。幕末には寺子屋が3か所開設されていた。明治4年岡山県に所属。同5年小向の民家に学問所が置かれ,西脇には支所が設けられた。同8年学問所が鹿忍小学と改称。同9年一部(現在の井出)を上山田村に編入。同12年西浦に鹿忍小学の校舎2棟を新築,1棟は暴風のために倒壊,同14年近代的な校舎が落成。同22年市制町村制施行による鹿忍村となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415526
最終更新日:2009-03-01




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