門田屋敷(近世〜近代)
江戸期〜現在の町名昭和42年からは1〜5丁目がある江戸期は岡山城下の1町,武家地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の東部,旭川左岸に位置する城下拡大に伴い,寛文9年門田村の集落を東方の山すそ付近へ移して跡地が武家地に割かれ,成立当初は29人の屋敷地が割り渡されたが,のちに拡大,国清寺から玉井宮にむけて広い参詣道が付けられて大道と称し,大道沿南側に,庭園東湖園が現存する重臣丹羽氏下屋敷,北側に同池田伊賀下屋敷があり,ほか中・下級の武家屋敷が並んだ東方,国清寺東堀沿いの片側町を国清寺後の町と呼び,このほか,もと伊賀屋敷と呼んだ門田南忍び屋敷,士鉄砲屋敷・東照宮御山道・仲間屋敷,忍び屋敷東西の町・忍び屋敷南北の町,新屋敷などがあった明治20年に石井十次は地内の三友寺に岡山孤児教育会(のちに岡山孤児院)を設立,同23年には岡山孤児院尋常高等小学校を作り,一時は孤児1,200名を集めて全国に知られた孤児院は大正15年に解散明治40年地蔵川西(門田分)に絹糸紡績が操業開始,同44年鐘淵紡績岡山絹糸工場となる大正12年岡山電気軌道旭東線(現東山線)が完成,路面電車が国清寺西側で左折して大道を通り東山まで通じた昭和7年の戸数579,人口2,486,うち男1,117・女1,369(旧岡山市史6)同20年の大空襲で地内のほとんどが被災,鐘紡岡山絹糸工場は廃業し,跡地の北部に昭和22年山陽女学校が移転し,翌23年山陽学園女子高校となる同じ跡地の南部は昭和22年岡山紡績が創業,同26年綿糸,同35年合繊糸紡績をとり入れ地場中堅企業としての地位を高めたが,現在は廃業昭和26年には岡山孤児院跡地に岡山博愛会病院が移転開業し,花畑の旧院はその分院となった同42年一部が,門田屋敷本町・徳吉町1〜2丁目・中納言町となり,同時に門田・網浜の各一部を編入
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415620
最終更新日:2009-03-01