ケータイ辞書JLogosロゴ 金岡荘(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜戦国期に見える荘園名。備前国上道郡のうち。正嘉2年3月日の備前国金岡東荘領家下文案(額安寺文書)に「金岡東庄」とあり,この時点までに当荘は東荘と西荘とに分かれていたことが知られ,金岡東荘の領家一条実経が平守房に同荘内の屋敷・畠3反30歩を宛行っている。東荘は現在の岡山市西大寺金岡付近にあり,当荘の大半を占めていた。「金岡庄」の名が史料に表れるのはこれ以後のことであるが,これは東・西両荘を合わせたものを指す場合と,東荘のみを指す場合があった。東荘のことを指すものとしては,永和2年6月3日の備前国守護赤松義則施行状(額安寺文書/大和郡山市史史料集),応仁3年4月16日の浦上則宗・阿閉重能連署奉書(西大寺文書/県古文書集3)などに例がある。嘉元4年6月12日の昭慶門院憙子内親王御領目録(竹内文平氏所蔵文書)に,鳥羽天皇の祈願寺安楽寿院の末寺興善院領の1つとして「備前国金岡庄」があり,当荘全体の本家興善院の下で,東荘の領家職を一条家が有していたと推定される。なお鎌倉末期と推定される年月日未詳の明仏書状(厳島神社蔵反古裏文書/鎌遺24369)に「金岡東庄の斗(ママ)のさかいに候とりて,こえさせ給へく候」と見える。延慶3年12月21日の前法務大僧正慈信備前国金岡東荘寄進状(額安寺文書)によれば,一条実経の子である興福寺別当慈信は,同荘領家職を西大寺末寺の額安寺に寄進した。元亨元年8月2日,慈信は額安寺僧の申請に応じて院宣ならびに長者宣を要求し,9月20日同荘を額安寺に安堵する後宇多上皇院宣が,さらに翌日には同様の藤氏長者宣が西大寺長老浄覚上人に宛てて出されている(額安寺文書/大和郡山市史史料編)。しかし鎌倉後期には,領家の支配は地頭の押妨や百姓の対捍によって動揺を始めており,元亨3年2月5日の3通の備前国金岡東庄地頭紀政綱・預所藤原義行和与状によれば,額安寺と地頭との間で下地中分が行われたことが知られる(同前)。これらの和与状および元亨3年5月7日の,同荘内尼了明分領田中分状・同荘道性分領田中分状・同荘尼無染分領田中分状などによれば,中分比は領家方2対地頭方3,中分方法は坪分けで,「金岡里」「海面里」「塩屋里」「竹星里」「唐臼里」「下走山里」などの地名が見える(額安寺文書)。そして同年5月12日には,同荘の所務についての和与状が作成されている(同前)。なお元亨元年10月9日の後宇多上皇院宣(東寺百合文書ヤ)によれば,豆田郷内荒沼の四至に「東限金岡庄」とあり,豆田郷の東に位置していたことが分かる。西荘については,前述の下地中分のときに作成されたと推定される「備前国金岡東庄〈元亨弐年〉実験田取帳事」と記された備前国西大寺境内市場図(日本荘園絵図集成上)に「十五代西庄畠」とあるのが初見である。なお同図によれば,当荘内の西大寺門前には市が発達し,酒屋や餅屋のほかに魚座・莚座・鋳物座などがあって公事を負担していたことが知られる。南北朝期に入ると,建武4年8月28日の光厳上皇院宣(額安寺文書)で,「金岡東庄」が額安寺に安堵されているが,国人の押妨が相次いだ。まず貞和4年10月5日の室町幕府禅律方頭人某(藤原有範カ)奉書(同前)によれば,美濃部彦次郎・松田次郎左衛門尉らが「金岡庄」に打入り,年貢を奪い,民家を焼き払っている。また延文元年11月8日の室町幕府引付頭人石橋和義奉書(二尊院文書)によれば,この頃「金岡東庄内別納二尊院田」に対する河村掃部入道の押妨があった。これより先の貞和4年5月27日の備前国金岡東庄領家下文で,亀寿丸が「金岡東方預所職」に補任され,応安5年6月2日の室町幕府細川頼之奉書案では「金岡東庄領家職」を額安寺領であると確認し,半済を停止させている(額安寺文書/大和郡山市史史料編)。さらに同7年9月14日の赤松義則遵行状(額安寺文書)によれば,同荘領家職を額安寺雑掌に打ち渡し同29日には守護代浦上助景遵行状が,さらに同10月1日には左衛門尉鹿知打渡状が出されている。また同10月13日の備前国守護赤松氏奉行人連署奉書(同前)によれば,岡本彦次郎入道・須恵弥次郎・平福入道ら近隣の国人が興善院雑掌を語らって同荘内に乱入する事件があった。同年12月24日の備前国守護赤松氏奉行人連署奉書(同前)によれば,同荘の半済(兵粮方)が福原三郎に預けられており,それが免除されても実行されていなかったことが知られる。その後永和元年5月6日の備前国守護代浦上助景遵行状(額安寺文書),同2年6月3日の備前国守護赤松義則遵行状(同前/大和郡山市史史料編)などで福原三郎代官の退出が命じられており,押妨は続いていた。なおこれらの遵行命令に従って打渡状も出されている。荘官としては,預所と公文が知られ,下地中分時には藤原義幸が預所であった。公文は鎌倉末期の正中元年12月24日実縁が金岡東荘公文職に再任され請文を差出している(同前)。その後永和元年12月27日の備前国守護赤松氏奉行人連署奉書(同前)によれば,藤田弾正忠の「金岡東庄公文職」に対する押妨が停止されている。また康暦元年7月12日の同連署奉書,同年8月3日の山田五郎右衛門入道成信請文,同年8月5日の浦上帯刀左衛門尉助景請文,同2年8月11日の備前国守護赤松氏奉行人連署奉書,同年8月12日の兵部少輔(赤松義則)遵行状などによれば,同荘の公文職は闕所であるとの申し出によって,一旦赤松氏から長谷雅楽右衛門尉に預け置かれたが,のち「本所一円之地」であることが判明して額安寺に返付されている(同前)。藤田弾正忠の追放後,額安寺が公文職をも兼帯することになったのであろう。以上の額安寺領とは別に当荘には嵯峨二尊院領の別納地があった。永仁4年4月10日の信増奉書案によれば,これは「故中御門禅尼」によって東荘年貢のうち40石が別納として二尊院に寄進されたものであるが,この頃には有名無実となったと主張しており,同年と推定される4月22日の大炊助連臣請文によれば,去年は「金岡東庄供料米」として,色代25貫文が進められたという(二尊院文書)。次いで元徳3年4月27日の金岡東荘二尊院別納年貢米散用状(額安寺文書)では,寺納が14石5斗,未進3石2斗5升5合4夕であった。康永2年と推定される9月6日の二尊院雑掌良勝申状によれば,別納地「金岡庄東方二尊院方分田」7町2反30代の支配について額安寺雑掌を訴え,同年10月9日の室町幕府引付方奉行人連署奉書で額安寺雑掌の出対を命じているが(二尊院文書),同年11月4日の西大寺雑掌行信申状(同前/東大史料影写本)によれば,額安寺側は年貢の緩怠は古田左衛門五郎の押妨によるものであって額安寺には関係ないと反論している。しかし再度の訴えが出されたらしく,同4年9月21日の室町幕府内談方奉行人連署奉書(二尊院文書)では,額安寺雑掌に参対を命じ,貞和元年11月7日の同連署奉書(同前/大日料6-7)でも不日の弁申を命じている。貞和3年9月3日には左近将監家連が「二尊院領別納方公文職兼預所職」の請文を提出している(同前/大日料6-11)。また応安6年12月日,名主百姓らは半済給主の非法を訴えて別納田下地去状(二尊院文書)を提出し,耕作権を返上している。室町期になると,嘉吉元年閏9月14日の室町幕府管領細川持之禁制(同前)では,「嵯峨二尊院領備前国金岡東庄内別納」に対する軍勢甲乙人の乱入狼藉を禁止している。これより先応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)の「一,不及異儀,致沙汰在所分」の1つに「金岡庄」と見える。次いで康正二年造内裏段銭并国役引付に「北野領〈備前国金岡東西領家職〉」とあり,また「北野社家日記」延徳3年6月3日条(纂集)には,北野社密蔵院慶世跡の遺領の1つとして「備前国金岡庄」があげられており,これによって室町期には東西両荘とも北野社が領家であったことが確認される。なお東荘内には額安寺の末寺西大寺があり,観応2年12月19日の権少僧都円慶寄進状案(西大寺文書)で西大寺の塔頭成光寺に「一,壱段卅五代〈金岡東庄南方地頭方塩屋里十三坪本庄利恒名内〉」が寄進されたのをはじめとして,貞治5年9月15日の地頭平実宗寄進状(同前/県古文書集3),応安5年6月17日の法師円慶寄進状案(西大寺文書),永和元年11月15日の地頭沙弥道久寄進状(西大寺文書/県古文書集3),永享10年8月日の芝原中務入道玄高寄進状(同前),文安2年12月24日の中村清覚寄進状(同前)などで,南北朝期から室町期にかけて,同荘内の田畠が西大寺に寄進されている。また応安7年12月日の備前国弘法寺免田畠注文(弘法寺文書)にも「一,金岡東庄 供養法免 参段」とあり,同荘内に弘法寺領があった。戦国期になっても西大寺への寄進は続いた。応仁元年9月18日の2通の浦上則宗・阿閉重能連署奉書(西大寺文書/県古文書集3)によれば,西大寺住持元秀と松田藤栄に宛てて,「金岡東庄諸御寺半済,并藤太給,国松名壱分,三島跡等」を今度合戦の御祈祷料所として西大寺に寄進する旨を伝えている。なお寺家への沙汰し付けを命じた同3年卯月16日の同両名連署奉書(同前)には「金岡庄藤田給,并国松名壱分等,三島跡事」とある。しかし文明2年卯月7日の同両名連署奉書(同前)によれば,同所を浦上源六が競望しており,重ねて寺家に沙汰し付けるよう命じている。また文明元年5月16日の宇喜多五郎右衛門入道宝昌寄進状(西大寺文書)では「金岡東庄成光寺来迎免名主職」を西大寺に寄進している。さらに延徳4年7月25日の宇喜多久家寄進状で「金岡東庄領家之内,西大寺市場敷,并諸公事人足等」を灯油免として,また同年月日の浦上宗助寄進状で「金岡西庄公文之内,西大寺市場敷」を造営のために西大寺に寄進している(同前/県古文書集3)。下って天文14年6月28日の浦上政宗判物(同前)では「当寺領金岡庄内,西大寺市場敷事」に対する諸役を免除し,造営を専らにするよう清平寺住持に命じている。なお大永3年11月5日の宇喜多能家畠地沽券(同前)によれば,成光寺侍従公に「金岡東庄下分畠」30代を直銭2貫800文で売り渡している。また天文7年11月晦日の浦上国秀判物(西大寺観音院文書/旧岡山市史2)に「当寺領内〈金岡西庄百姓等,以東庄引懸諸公事相除跡,並屋敷百姓,依悪行闕所時〉彼屋敷分事」とあり,清平寺に対し寺領を安堵し,祈祷を命じている。永禄9年5月日の「金岡庄如法寺」に宛てた禁制(黄薇古簡集)では,山林竹木の伐採,山河殺生,境内への牛馬を放つことを禁止している。荘域は,東荘が現在の岡山市西大寺・金岡付近,西庄が現在の岡山市西庄付近と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415630
最終更新日:2009-03-01




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