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岡山県>川上村

 明治22年〜現在の大字名。はじめ徳田村,明治35年からは川上村の大字。明治24年の戸数110,人口は男186・女171。同年尋常徳山小学校は地内に校舎を新築移転し徳田尋常小学校と改称,同39年下徳山に移転。明治31年蒜山原に陸軍軍馬補充部大山支部旭川派出所が設置され,全体で約2,300町余,当地では地区有林野など162町余が891円余で買収され(白髪誌),土塁で囲まれた牧場で大正6年まで軍馬の育成が続いた。昭和2年蒜山原で大阪の原辰太郎がトラクターによる最初の開墾を試みたが失敗に終わる。同11年時局の変遷に伴い陸軍第10師団が蒜山原などを再度買収し,堂の上に兵舎を設置し演習場と化したが,終戦により緊急開拓事業による開拓地に指定された。当初開拓は困難を極めたが,昭和30年頃から開始されたひるぜん大根の京阪神市場出荷やジャージー種乳牛の導入による酪農の開始などにより軌道に乗り,三木ケ原には酪農後継者の養成を行う中国四国酪農大学校の第2牧場が設置された。昭和32年三木ケ原に県立蒜山キャンプセンター(同37年焼失)設置。同36年三木ケ原が蒜山国民休暇村に指定され,同38年大山隠岐国立公園へ編入された。同45年蒜山大山有料道路が鏡ケ成国民休暇村まで開通し整備も進み,三木ケ原には国民宿舎やドライブイン,企業の保養所などが集まり蒜山観光のメッカとしてにぎわい,正富では民宿も行われる。昭和22年新学制により開校した川上中学校は,翌23年旧陸軍川上廠舎跡に校舎を移転し,同28年新校舎が完成,同38年八束中学校と統合され蒜山中学校となり,同41年統合校舎が竣工するまで川上校舎として利用され,同43年徳田・茅部両小学校を統合した川上小学校の校舎となった。地内には村役場も置かれ,主要地方道江府中和用瀬線沿いに村民センター,病院,商店も集まり村の中心をなす。沖積地の米作や蒜山山麓の大根作が盛んである。同60年の世帯数174・人口545。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415805
最終更新日:2009-03-01




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