ケータイ辞書JLogosロゴ 賀茂郷(中世)


岡山県>加茂川町

 鎌倉期〜戦国期に見える郷名。津高郡長田荘のうち。村名でも見える。弘安10年4月19日の関東下知状(神田孝平氏所蔵文書)に「当(長田)庄賀茂郷内中村・新山・下賀茂地頭式部孫右衛門尉頼泰」とあるのが初見。同下知状および同日付の別の関東下知状(早稲田大学所蔵文書)によれば,伊賀(式部)頼泰は,同じく長田荘内の鶴峰・河内村の地頭伊賀光藤,建部郷地頭式部八郎右衛門入道妙光女子藤原氏代兼広,紙工【しとり】保地頭の伊賀光高とともに,荘官の補任権,検断権,山野の支配権を巡って,長田荘雑掌から訴えられている。これに対し,幕府はそれぞれについて両者の進止を認める折衷的な裁決を下している。なお,同下知状によれば,地頭景廉が建仁2年に注文を作製して両者の権限分割を行ったことが知られる。南北朝期にはいると,康永元年6月28日の年紀を有する備前国一宮社法(吉備津彦神社文書)には「賀茂等上下村々」「かも村上下」など村名で見え,当地が上下に分かれていたことが知られる。正平8年7月11日の後村上天皇綸旨(吉田黙氏所蔵文書)では,「長田庄内賀茂・建部両郷」に対する伊賀兼長らの押妨を停止し,長田荘本家の蓮花峰寺が知行すべきことを命じている。また明徳3年頃の某請文(古沽券状/国立国会図書館貴重書解題6)によれば,代官某は賀茂・建部両郷の年貢として毎月5貫文を納めることを請け負っている。応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)にも「一,かたく支申在所」として「賀茂郷」と見える。天正4年5月2日の宇喜多直家直状写(美作古簡集註解下)によれば,直家は「津高郡加茂・江与見村之内五百石」を小坂右兵衛に宛行っている。また天正6年6月28日の宇喜多直家直状写(同前)によれば「津高郡加茂村之内三百石」が小坂与三郎に宛行われている。やがて宇喜多・毛利両氏の勢力の衝突する舞台となり,天正8年と推定される卯月15日の吉川元春書状写(萩藩閥閲録)ほかによれば,「輝元賀茂表出張ニ付而」と見え,当地において,宇喜多氏と毛利氏の合戦があったことが知られる。江戸期には下賀茂村・上賀茂村が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415871
最終更新日:2009-03-01




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