ケータイ辞書JLogosロゴ 辛川(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期から見える地名。備前国津高郡のうち。唐河・唐皮とも書いた。「源平盛衰記」巻33木曽備中下向斉明被討並兼康討倉光事によれば,妹尾兼康は佐々迫の要害に兵を置き,自分は「唐河の宿,板蔵城に引籠」んでいる。文保元年3月日の年紀を有する太刀銘(古刀史年表)には「備前国唐河住左兵衛尉菅原為遠」と見える。「太平記」巻16備中福山合戦事(古典大系)によれば,5月15日の宵から戦いは始まり,城将大江田氏経はさんざん戦ったのち,「近付敵ノ中ヘ破テ入リ,懸散シ,板倉川ノ辺ヨリ唐皮迄,十余度マデコソ闘ケレ」,5月18日に三石宿に移っている。一方,足利直義は,この日「唐皮ノ宿」に逗留し,備前吉備津宮に参詣している。次いで「道ゆきぶり」(群書18)によれば,応安4年の春頃,今川了俊も「から川」に逗留して,同宮の前を通り過ぎている。戦国期にはいると,大永6年12月13日の備中国吉備津宮領坪付注文(吉備津神社文書)に「〈辛川之〉大森田右衛門」の人名が見える。大森氏は備前吉備津宮神主である。その後天正3年3月13日,「辛川」において宇喜多氏と小早川隆景の合戦があり,同月15日宇喜多直家は大森徳久の戦功を賞している(大守家文書/県古文書集4)。天正8年と推定される閏3月9日および同11日の桂景信書状写(萩藩閥閲録)によれば,3月13日毛利勢がにわかに「辛川口」に出勢したことを湯浅将宗に伝えている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7415898
最終更新日:2009-03-01




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