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「川端町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
川端町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は川端丁と書き,明治17~22年は高梁【たかはし】を冠称江戸期は松山城下の1町,武家地明治13年高梁町,昭和29年からは高梁市の町名城下...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7415976]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 川端町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は熊本城下古町西古町懸の一町で,明治12年熊本区,同22年からは熊本市の町名となる細工町4丁目と古桶屋町をつなぐ東西の町人町で,南は白川「おてもやん」の一節に「川端町っあんきゃぁめぐらい」とあるが,これは江戸期,城下から古町村二本木方面へ行くには当町から白川右岸の石塘の上を通ったことを歌っている明治18年芝居劇場末広座が完成末広座は紺屋阿弥陀寺町の東雲座と並んで有名であったが,明治35年頃に旭座と改称し,大正12年市電敷設のための道路拡張により,撤去された明治16年の戸数47・人口176,民有耕宅地面積は5反2畝余(県公文類纂/県立図書館蔵文書)大正4年の戸数35・人口176世帯数・人口は,昭和35年58・252,同45年36・113 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 川端町(近世~近代) 江戸期~現在の町名川端通四条上ルの町町名は鴨川左岸沿いに位置することによる寛文6年,所司代板倉重和が弁財天町や常盤町・二十一軒町・中之町および宮川筋1丁目とともに水茶屋渡世を許可した祇園外六町の1つ「京都大概覚書」に「水茶屋数之事」として川端東側に3軒,同西側に7軒と記している当町から鴨川原に下る道を俗に車道【くるまみち】と称し,牛馬専用の通路であった明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】24番組,同5年第15区と改称,同25年第15学区に編成明治12年下京区川端町,同22年京都市下京区川端町,昭和4年東山区川端町となり現在に至る四条河原の納涼とともに発展したが,明治27年疏水運河の開通や大正4年京阪電鉄四条駅の設置によって衰微... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」