ケータイ辞書JLogosロゴ 神崎村(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜南北朝期に見える村名。備前国邑久郡のうち。荘園名としても見える。地名としては,建久6年5月7日の官宣旨案(堂本四郎氏所蔵文書)に「南北条・長沼・神崎開発田畠者,豊原庄加納半不輸地也」とあるのが初見。建久8年6月15日の重源譲状案(大日料4‐9)には「備前国南北条・長沼・神前庄」とあり,この2通の文書によれば,当地は「潮損不熟之常々荒野」で豊原荘加納の半不輸地とされていたが,平頼盛が備前国を知行していた頃,庁宣を得て干拓され東大寺東南院領となった。ところが,正式な立券がなかったため,その後,豊原本荘の領家藤原行房や国衙から乱妨が続き,建久6年,東大寺大勧進の重源は干拓地の立券を朝廷に訴えて,これを認められ,弟子の定範等に譲っている。その後しばらくは東大寺の直務が続くが,弘安8年8月日の東大寺領備前国顛倒荘園注進状案によれば,「長沼 神崎 南北条」3か村は東大寺造営のために施入されたのであるから,造営の成ったのちは国衙に返されるべきであるが,国衙によって勘落されてしまったとして,東大寺では衆徒が神輿をかついで入洛し,騒動は10年以上に及んだ。永仁元年12月日の東大寺寺務条々書事(古文書集)に「豊原庄内南北条・長沼・神前」,同2年4月の東大寺衆徒等重申状案(東大寺文書)に「寺領備前国野田・南北条・長沼・神崎庄子細愁状」と見える。同3年7月9日の伏見天皇綸旨(東大寺文書)によって,東大寺に返付され落着している。永仁5年と推定される12月日の備前国神崎村作田内検注文(東大寺文書/東大史料影写本)によれば,惣田数9町7反40代18歩で,うち得田は3町4反15代18歩であった。また年月日未詳の備前国南北条并神崎郷年貢算用状(東大寺文書)には永仁5年分として「神崎二石之内」とあり,領家得分,講経用途,陀羅尼衆,両座下行に分配されている。南北朝期の年月日未詳の寺領土貢注文(同前/東大史料影写本)には「神崎村五十石許」とあるが,これが1年分の年貢額であるかどうかは分からない。また貞和2年と推定される12月25日の実円書状(同前)には「於近年神崎無正体」とあり,この頃には退転していたと考えられる。なお,鎌倉期と推定される年月日未詳の中院流家領目録草案(久我家文書1)に「備前国 神崎庄」と見える。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416015
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ