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- 苅田村(近世)とは
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苅田村(近世) 江戸期~明治9年の村名刈田とも書く(慶安郷帳)那須郡のうち那珂川右岸の喜連川【きつれがわ】丘陵上,同川支流権津川の上流地域に位置する地名は,春秋帰行の雁が数千羽当地におりて憩うためはじめ雁多と称したが,のち苅田と書くようになったという天正18年10月22日の那須資景知行目録では「かり田」と見え,「ふく原・上ひる田・するかの寺・中宿・下ひる田・向宿・大ほり・わた」とともに1,795石9斗7升とある(那須文書/県史中世2)はじめ那須藩領,貞享4年幕府領,元禄10年旗本榊原・下島・小林・福島氏の4給となり,天保年間以降は幕府と旗本榊原・下島・小林氏の4給なお,「慶安郷帳」では那須氏領,「元禄郷帳」では幕府と旗本榊原・下島・小林・福島氏の5給,「改革組合村」「旧高旧領」では幕府と旗本榊原・下島・小林氏の4給と見える「旧高旧領」による所領別内訳は幕府40石余・榊原氏82石余・下島氏41石余・小林氏41石余村高は,「慶安郷帳」46石余(田31石余・畑15石余),「元禄郷帳」「天保郷帳」「旧高旧領」ともに205石余「改革組合村」では佐久山宿組合寄場に属し,天保年間の家数9嘉永4年の家数9・人数32延享3年権津川の洪水で被害を受けた天保13年の村高人別家数書上帳によれば,家数9・人数27(男13・女14),馬5と見え,村高205石余のうち148石余が荒地引とあり,激しい荒廃化がうかがえる明治4年宇都宮県を経て,同6年栃木県に所属明治初年日盛学校が設置された明治9年芳井村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
苅田村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」