ケータイ辞書JLogosロゴ 久田荘(中世)


岡山県>奥津町

 戦国期に見える荘名。美作国苫西郡のうち。久多とも書き,村名でも見える。端裏書から見て文明13年と推定される9月5日の山名政之注進状(古文書)に「急度致注進候,兵部少輔元之・小太郎已下……赤松被官大河原引執,作州久多庄令許容候」と見え,伯耆守護山名政之は,反旗を翻した叔父元之が伯耆国竹田から没落し赤松氏を頼って美作へ逃れ,赤松政則の被官大河原氏によって当荘に許容されたと山名氏惣領政豊に注進している。下って,永禄初年頃と推定される11月9日の三浦貞□感状(美甘文書)で「去七日ニ久田表朝懸申付候処」と見え,美甘助右衛門尉(義清)に11月7日の朝懸の功に対する感状を出している。さらに,天正9年5月28日の中村頼宗知行宛行状写(美作古簡集註解下)で「久田之内坂手源之丞」分などが武本又三郎に宛行われている。そして,同年9月10日の斎藤近実感状(米井家文書/県古文書集3)において小田草城城主斎藤近実は,飯坂での牧弥太郎追捕の功により「久田村之内恒友名」など3か所を原田兵衛尉に宛行っている。また,同年と推定される9月17日の中村頼宗判物写(美作古簡集註解下)で給所として「久田地頭分之内一番頭五石」などを桜井久次郎に与えており,さらに,同年同月23日の中村頼宗書状写(同前)では「久田地頭分之内行吉半名友宗名長真分」を桜井久次郎の父藤兵衛に申し付けている。これら天正9年に給地宛行が集中して見られるのは,同年春以来宇喜多氏と毛利氏との間で繰り返された美作国の支配を巡る諸城の争奪戦の中で行われたことによるのであろう。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416207
最終更新日:2009-03-01




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