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- 河本村(近世)とは
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河本村(近世) 江戸期~明治10年の村名伯耆【ほうき】国日野郡のうち川本とも書く稲積山北西麓,日野川上流南岸の小盆地に位置する鳥取藩領村高は,拝領高261石余,「元禄郷村帳」261石余,「天保郷帳」294石余(うち新田高33石余),「元治郷村帳」299石余,「旧高旧領」303石余元禄の本免は5.8,「元治郷村帳」の物成は163石余戸口は,「伯耆志」16戸・98人,「文久3年組合帳」16戸「伯耆志」によれば,林を2町余有し,隣村へは東の川上村へ1里,西の多里村へ3町余,南の湯谷村へ4町,北の萩原村へ3町余,産土神は若宮大明神で,社地は東西10間・南北5間,祭日3月3日,ほかに小祠13・辻堂1がある明治4年鳥取県,同9年島根県に所属同10年湯谷村と合併して湯河村となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
河本村(近世) 江戸期~明治8年の村名備前国和気郡のうち川本村とも書いた杉沢山南麓,吉井川下流左岸に位置する村名は川沿いに立地することによるという天神山城主浦上宗景の子与次郎の墓がある宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」49石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに57石余なお「備陽記」では,高49石余,反別3町1反余,家数17・人数89また化政期の和気郡手鑑(和気郡史)では,高49石余・又高8石余,田9反余・畑2町1反余,家数28・人数127,天神・明現・若宮・八幡・竜王の相殿があり,社家1軒・人数6,高瀬舟8明治4年岡山県に所属同8年岩戸村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
河本村(近世) 江戸期~明治22年の村名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」