ケータイ辞書JLogosロゴ 小串村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。児島郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。なお慶長7年7月17日の伊岐遠江守宛小早川秀秋署判の加増目録(灘崎町史)によれば,伊岐氏が常山城を預り,当村437石余などを与えられている。村高は,「領分郷村高辻帳」「備陽記」ともに500石余,「天保郷帳」721石余,「旧高旧領」754石余。「備陽記」によれば,枝村として向小串・米崎・田高田があり,岡山京橋まで陸路22里,同じく船路3里,反別61町余うち塩浜4町余,家数430・人数2,204,小猟船から9端帆の船104,池24。当地は岡山城下への関門としての位置を占め,また船掛りのよい港であったことから,岡山藩の米蔵が置かれ,内海航路廻船への積出し港の機能をもっていた。また文久3年には,藩が旧丸山城跡へ砲台(台場)を築き,陣屋を設置している。主産業は漁業であるが,漁場は児島湾内よりも主として瀬戸内海であり,そのため胸上村との漁場争論も起きている(撮要録)。塩田は小串と向小串との間にあり,赤穂から製塩技術を導入したものである。神社は向小串塩竈神社で猿田彦命などを祭神とし,氏子480,寛永6年社僧高明院が胸上村より勧請したといい(備陽国誌・県神社誌),社伝にいう慶長年間創立の説とともに,この地に塩田が開かれた時期が宝永年間であることと一致しない。製塩に由来する神社である(岡山市史)。また西米崎には岡山城下門田玉井宮祭神豊玉姫と姉妹の神を祀る米崎神社があり,海上に光り輝いた豊玉姫の上陸地光明崎が転じて米崎となったとする伝説もある。寺院は真言宗如意山延寿院(児島霊場八十八か所第86番札所)・同宗円城山高明院(児島霊場八十八か所第87番札所)がある。高明院の開基は永久3年との伝説や安芸国竹原弾正某の檀那寺移転説(児島郡誌)があり,隣村阿津村広幡八幡宮の西にある文明13年銘の不動明王石像を祀る堂の地を高明院旧跡地ともする(岡山市史)。伝興教大師筆両界種字曼荼羅がある。明治4年岡山県に所属。同5年船改所を設置。この改所は下津井・日比とともに郡内3か所の1つ。同6年延寿院を小学校として使用,同8年光明小学を経て位領小学と改称。この頃に郵便取扱所が設置される。同22年大門村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416506
最終更新日:2009-03-01




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