ケータイ辞書JLogosロゴ 小坂荘(中世)


岡山県>鴨方町

 鎌倉期〜室町期に見える荘園名。備中国浅口郡のうち。仁治2年9月29日の摂政近衛兼経御教書案(三聖寺文書/吉備地方史の研究)に「備中国小坂庄事」とあるのが初見で,当荘の預所職は藤原業茂相伝の由緒があり,荘務は業茂の進止であるので,地頭も領家使も業茂の荘務に従うべきであることを執権北条泰時に伝えている。鎌倉末期頃のものと推定される備中国小坂荘領家・預所職相伝系図および備中国小坂荘領家職相伝系図によれば,当荘ははじめ皇室領であり,領家職は鳥羽院の皇女頌子内親王(五辻斎院)から藤原家経(五辻家祖)―その娘二条局―その娘実忠中将女―同中将子息道照―尼西阿へ,一方預所職は頌子内親王から日野流の藤原宗業―業茂―基業―宗綱―尼西阿へと伝領され,尼西阿が領家・預所両職とも慈一(東山湛照)に譲与して三聖寺領となった(同前/鎌遺10662・19713・21524)。東山湛照は備中国下道郡二万郷の生まれで,正嘉年間頃三聖寺の覚空のもとで浄土教を学び,のち禅院としての三聖寺の開山となった。なお備中国に当てて出された後欠で年月日未詳の官宣旨案(同前/吉備地方史の研究)の事書に「応令木工権頭藤原朝臣業茂子孫相伝領掌当国浅口郡小坂庄預所職事」とあり,藤原業茂の子孫が小坂荘預所職を相伝することが朝廷から認められたものと思われる。弘安6年8月14日および同年12月8日と同8年4月11日の六波羅御教書案によれば,当荘雑掌は当荘地頭庄藤四郎入道行信の年貢抑留を訴え,これに対し六波羅探題は地頭の行為を非とし,使節の雅楽左衛門三郎入道および犬甘蔵人入道に対して地頭に年貢を弁済させるよう命じている(同前/鎌遺14924・15023・15561)。なお,当荘の故地と推定される現在の鴨方町小坂東の小字に犬飼があり,犬甘蔵人入道は,備中国の土豪的武士と考えられる。三聖寺長老に当てた年未詳8月12日の某天皇綸旨(同前/吉備地方史の研究)には,「小坂庄事法師訴申旨□□」とあり,法印某が所職そのものについて訴えたらしいが詳細は不明。また,三聖寺納所宛の年未詳12月3日の某書状(同前)によれば,本所への年貢として25貫文を納入していたことが分かる。その後当荘の預所職は三聖寺から福昌寺に譲与されたらしく,永仁3年11月12日および同4年7月20日の伏見天皇綸旨によれば,その宛所は「福聖(昌)寺長老御房」となっており,行願なる者と同寺長老との間に所職を巡って紛争があったことが知られる(三聖寺文書/鎌遺18930・19098)。この福昌寺については詳細は不明であるが,万寿寺や三聖寺と近い関係にあった寺院と推定される。さらに永仁5年10月15日および同6年6月16日の伏見天皇綸旨案によれば,当荘預所職について宗綱入道の妨げがあり,弘安の譲状が明確であるとして,その妨げを停止するよう,福昌寺上人および,三聖寺の住職爾一上人に伝えている(同前/鎌遺19484・19712)。おそらく,この宗綱入道は,かつて預所職を有していた宗綱と同一人物とみられ,尼西阿への譲渡を繰り返して,当荘預所職を主張したものであろう。乾元2年5月8日の後宇多上皇院宣(同前/鎌遺21523)によれば,福昌寺は長講堂に当荘を寄付しようとしたが,不知行地であることを理由に後宇多上皇はこれを拒否している。なお,徳治2〜3年頃と推定される正月19日付の後宇多上皇院宣(同前/鎌遺22828)には「備中国小坂庄預所職事,依相伝,被避与福昌寺之由被聞食了之由,御気色所候也」とあり,素道上人に当荘預所職譲与を認めている。下って,南北朝末期の高橋某に当てた明徳3年6月7日の某書状(同前/吉備地方史の研究)によれば,近年「福昌寺領小坂庄」の年貢は庄・小坂両氏の請負いになっていたが,先に置いた代官を排除して,荘主(しやうかい和尚)に当荘の領家職を渡すようにと伝えており,直務支配を企図していたことが知られる。「しやうかい」は性海のことで,彼は東山湛照門下の虎関師錬の高弟で,将軍足利義詮・義満の信任を得た人物であり,南北朝期の動乱で不知行となった当荘について,義満の信任篤い性海の口添えで所職回復を工作したものであろう。年貢を請け負ったという庄氏は前出の地頭の子孫,小坂氏は当荘の名主層から成長した国人と思われ,いずれも「太平記」に見える。在地の生活を伝える年未詳6月27日の沙弥某書状(同前)によれば,当荘は農業用水として河川の水があまり利用できず,多くを天水に頼っていたが,当年は雨がほとんど降らず不作の田地が莫大であることを福昌寺に訴えている。なお,戦国期に成立したと推定される年月日未詳の吉備津宮流鏑馬料足納帳(吉備津神社文書)には,寛正6年分として「三貫文 小坂〈此内弐貫五百直納,壱貫文地下徳文,札銭共ニ,路銭三百〉」と見え,当地から流鏑馬料足として3貫文が備中吉備津宮に納められている。また,応永元年の記録を文禄5年に書写したという吉備津宮惣解文(同前/県古文書集2)には,浅口郡8郷の1つとして「小坂郷 曳出物馬十疋 百済秋富」と見える。永禄初年と推定される6月6日の毛利元就・同隆元連署書状(山口県文書館所蔵文書/広島県史古代中世資料編5)には,「一,小坂之事,去二日城切崩猿懸衆少々討捕候」と当地で毛利方と庄方の合戦があったことを渡辺出雲守に伝えている。荘域は現在の鴨方町小坂西・小坂東に比定される。荘域内には中世窯跡の沖の店遺跡(小坂西字谷井)があり,平安末期から鎌倉初期に使用されたと推定される土師器椀が出土した(岡山県埋蔵文化財発掘調査報告42)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416523
最終更新日:2009-03-01




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