ケータイ辞書JLogosロゴ 下村(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜室町期に見える村名。備前国上道郡のうち。居都下村,居都下方とも見える。文保年間と推定される年月日未詳の教成卿遺領相伝事(宮内庁書陵部所蔵/竜野市史4)に,山科教頼が謀書を掠めて掠領しようとした所領の中に「居都下村」が見え,教頼の子教定に与えられた。下って暦応2年8月26日の足利尊氏袖判下文(大徳寺文書)では,「居都庄下方地頭職」などが勲功の賞として寺岡経智に宛行われている。これに関連して,康永3年9月17日の足利直義下知状(同前)によれば,「居都庄下方二分地頭職」について経智と父林清兼相伝の地であると主張する幸菊丸との間で相論があったことが知られ,経智に安堵されている。なお嘉慶2年12月9日熊野本宮領備前国散在斗餅田下地目録(八坂神社文書)には「居都〈下村〉壱町」とある。その後も山科家領として相伝されており,「教言卿記」「山科家礼記」「言継卿記」などに頻出する。「教言卿記」では応永12年6月12日条に「一,自備前下村夏月宛〈二貫五百〉到,目出々々,白魚〈一箱,重長進之〉」とあるのが初見で,同年12月18日条では「備前下村」の使が上洛し,損亡と名主の逐電を理由に年貢免除を請うているが山科家では認めなかった(纂集)。同書同15年正月25日条によれば,当村は山科教言が知行しており(同前),家司の大沢重能や坂田資興を「下村奉行」に任じて地下代官,本家法華堂,守護との折衝にあたらせている(同書応永13年5月21日条・6月27日条・7月25日条・10月16日条・12月18日条,同15年7月18日条など/纂集)。当村の年貢は春夏秋冬に分けて京納されていたらしく,各時期2貫500文が納められている(同書応永13年4月13日条・7月6日条・10月16日条・11月19日条,同14年4月6日条・8月1日条,同15年6月13日条,同16年12月3日条/同前)。また同書応永15年7月18日条から,当時赤松氏被官の富田氏が当村の半済給人とされていたことが分かる。続いて「山科家礼記」にも文明2年8月4日条に「美作左衛門方備州居都庄公用弐百疋進納立,上下村百疋宛分之」とあるのをはじめとして当村名が頻出する(纂集)。当村の奉行は坂田左衛門(資友)であったらしく,文明2年11月25日・同3年12月26日・同4年12月29日に左衛門方に当村からの年貢が届けられ,同9年3月18日は当村に下向している(山科家礼記/纂集)。「山科家礼記」文明3年10月7日条所収の同年10月2日の管領細川勝元奉書案(纂集)によれば,同年4月に当村の半済を止め山科家雑掌に打ち渡すよう命じられたが,守護被官人の妨が続いていたことが知られる。また同書延徳4年7月16日条によれば,「居都下村六十貫文」について坂田資友を招いたことが見えるが,これは当村の年貢額であったらしく,同書明応元年12月29日条所収の同年12月12日の居都庄下村代官職請文案では,薬師寺範光が毎年京納60貫文で当村の代官職を請け切り,このうち10貫文を7月晦日に納めることを約している。また「言国卿記」明応2年10月15日条所収の同年月日の浦上基久の居都上下村代官職請文(纂集)によれば,上下両村分の公用は90貫文で,下村からは雁1・鴨1番を土産として上進することになっていた。同書同7年正月18日条(同前)によれば,山科家では去年の当村の年貢の残りとして,9貫文を受け取っている。また同年2月5日には,言国は土倉「ムシアケ方」より当村年貢を抵当に借銭をしているが,この日同年10月日付の年貢請取状を渡している(言国卿記/纂集)。次いで「言国卿記」同年12月21日条には「居都下村代官」として薬師寺某の名が見え,同書文亀元年7月26日条には「備前居都〈下村〉」から年貢1貫500文が上進されたことが見える(纂集)。旧古都村,現在の岡山市古都南方・鉄・藤井・古都宿・矢津・宍甘【しじかい】付近と推定される。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7416929
最終更新日:2009-03-01




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