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「船頭町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- 船頭町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は岡山城下の1町,武家地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の南部,外堀の外に位置する岡山藩船手の屋敷地通り筋南北の町並み東...
[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7417408]
関連項目:
赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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船頭町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は津山城下の1町,町人地明治22年津山町,昭和4年からは津山市の町名津山城の南に位置する東は河原町,西は吹屋町,南は吉井川,北は小姓町に接する町名の由来は,森氏がこの町の人に命じ年貢米や諸物資の運搬の任にあたらせたためである(津山誌)元禄10年の城下町図によれば,家数94うち持家79・借家15,人数797(男416・女381)当町は津山城下の港で,高瀬舟の出入りでにぎわった津山船54隻,長岡船(津山市八出から柵原【やなはら】町藤原まで)116隻,備前田原船(和気郡和気町)16隻の計186隻が出入りしたという(津山市史)河岸の船着き場を中心に発展し,藩の貢米をはじめ,諸物資や旅客の運輸で繁盛した津山家数役付惣町竪横関貫橋改帳によれば,町内には蔵元・船持ち・船頭・船乗り・諸商人が居住した現在の今津屋橋の下手(西方)にはかつて藩の御船蔵・船頭屋敷があり,橋の上手(東方)の土手には番所・制札場・高灯籠があった蔵元ははじめ熊野屋太郎右衛門であった今津屋平蔵は今津屋橋を架設し,明和年間のはじめ蔵元になったと伝えられている町内神に三橋神社があり背中合わせに小姓町の同名神社があって夫婦神社といわれる明治初期の戸数100・人口421明治期になって交通や営業に制限がなくなり,高瀬舟の数はかえって増加した明治12年の津山出入の舟数は209隻を数える(津山市史)明治31年中国鉄道が津山(現津山口)~岡山間に開通し,以後船運は衰退した世帯数・人口は,昭和45年112・313,同55年86・201 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
船頭町(近世~近代) 江戸期~現在の町名江戸期は小倉城下の1町小倉城の北東に位置し,西は紫川河口に架設された常盤橋(寛永11年頃建造)を渡ると室町に至る東曲輪のうち江戸期は橋の側に人々が群集する明地(勢溜)があったその辺を客屋町と称したらしいが(小倉市誌),幕末期の城下絵図にその町名は見えず,船頭町に含まれている町名にふさわしく町家のほか御船方屋敷や船頭の住居が多く,天保年間頃の武家屋敷絵図による家数は,1~3丁筋14軒,その東側に武家屋敷34軒町家は1~3丁目までで55軒余を数えるなかでも大坂屋は間口21間余もあり,日田代官の定宿であったまた塩飽屋は佐賀藩,皿屋は柳川・平戸藩の定宿素麺屋は唐津藩の定宿のほかに豊後国諸藩の飛脚御用をつとめ,蔵米入札も行った素麺屋と廻船問屋を営む唐津屋は細川氏時代からの由緒をもつ商家(小倉商家由緒記)明治17年の戸数69・人口252同20年の戸数82同22年小倉町,同33年小倉市,昭和38年北九州市小倉区,同49年からは同市小倉北区に所属昭和46年一部が京町1~4丁目となり,舟町・浅野町の各一部を編入明治期から料飲店・貸席などがあり,大正期には映画館も開館現在は料飲店・遊技場などの多い歓楽街となっている世帯数・人口は,昭和22年82・282(男118・女164),同50年183・343,同58年22・55... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
船頭町(近世~近代) 江戸期~昭和40年の町名・大字名滋賀郡のうち江戸期は俗にいう大津100か町の1つで,幕府領町名は百艘船仲間が居住していたことに由来中町通りの菱屋【ひしや】町と石橋町の境から浜通りの桝屋【ますや】町と東今颪【ひがしいまおろし】町の境に至る横町真宗本願寺派泉福寺があるほかは町屋江戸初期には船仲間47軒が居住していたが享保年間には各町に分散して9軒に減っている(町有文書)それに代わって蔵元・油問屋・荷問屋などが増加船頭町は船夫役以外は諸役御免の特権をもっていた明和~安永年間の船屋三郎兵衛は掛屋や米会所頭取などを務めた有力者文政元年の幕府御用金は3名で275両負担している(大津市志)自治組織は石川町組明治5年滋賀県に所属同7年桶屋【おけや】町を合併同17年商業学校が置かれたがまもなく移され,同34年にはさらに近江八幡町に移されている明治22年滋賀郡大津町の成立に伴い大津町大字船頭,同31年市制施行に伴い大津市船頭町となり,昭和40年長等【ながら】2~3丁目の各一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
船頭町(近世~近代) 江戸期~現在の町名西木屋町通四条下ルの町寛文12年洛中洛外大図にすでに現町名が見える町名は「坊目誌」に,「慶長中高瀬梁開漕の日,備前国より舟子を募り,始めて備前島町に置き,のち当町に移す依て町名となれり」とある宝暦4年の家数41,うち本家8・借家33,人数126,また享保18年には年貢として6石5斗余を銀納(北村家文書)江戸期は下中筋組の下河原三十二町組,明治2年の町組改正より下京【しもぎよう】12番組,同年川口町を合併同5年第14区と改称,同25年第14学区に編成明治12年下京区船頭町,同22年京都市下京区船頭町となり現在に至る... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」