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- 富尾村(近世)とは
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富尾村(近世) 江戸期~明治7年の村名飽田【あきた】郡のうち坪井川と井芹川に挟まれた台地上に位置する地名については,「鳥見尾(とみお)」に由来するといわれ,見晴らしのよい丘陵地帯の意で,神の天降の地とされ,神事の地などに選ばれてきた古墳時代後期の富ノ尾古墳があり,装飾古墳の円墳1基が現存するまた女性の富尾石人(東京国立博物館所蔵)が付近から出土した熊本藩領村高は「旧高旧領」316石余慶長13年の検地帳(県立図書館蔵文書)によれば「活亀(池亀)之内富尾村」と見え,高305石余・反別32町1反余,家数53,人数は男21・女17,牛5・馬1「肥後国誌」では池田手永に属し,高316石余,小村に法成寺があるなお同書に法成寺跡が見え,延宝3年米田是正が坪井村に移したという氏神は天満宮(富尾菅原神社)熊本県を経て,明治5年白川県に所属同7年の戸数50・人口286,田畑26町5反余・山野3反余(県市町村合併史)同年池田村の一部となる |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
富尾村(近世) 江戸期~明治11年の村名三河国幡豆【はず】郡のうち当初は富尾新田と称し,留尾と記したものもある平坂入江左岸東方,碧海台地上に位置する富尾の尾は峰・丘の意で,富む丘,富む村の意味であろう(西尾市史)開発は承応2年(村々聞書)西尾藩主の命で,紀伊国から来た浅岡氏が開発した(浅岡家文書)ただし,「元禄郷帳」「天保郷帳」には当村名が見えず,上矢田村のうちに含まれている西尾藩領村高は,元文元年西尾領村々高反歩永引新田記1石余,銭成高62石余,安永5年西尾郷村雑書1石余,銭成高96石余,「旧高旧領」99石余諸役免許の地(西尾郷村雑書)明和4年の家数35・人数162安政6年の免定によると,銭成新畑の反数は10町余で,大半が畑であった承応2年創立の八幡宮,吉良8番札所・西城31番札所の観音堂,地蔵堂がある明治11年富山村の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」