- JLogos検索辞書>
- 仲間村(近世)とは
「仲間村(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
- amazon商品リンク
![]() | 仲間村(近世) 王府時代~明治41年の村名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 仲間村(近世) 江戸期の村名丹波国氷上郡のうち中間村とも書いた篠ケ峰【ささがみね】より南流する坂尻川と五ケ野川の合流点付近地名は,牧山の西谷と東谷の間の意か文禄4年頃和田荘の一部,慶長3年村切りされ,同年から柏原【かいばら】藩領慶安3年幕府領,正保2年からは旗本杉浦氏知行村高は,慶長3年では中間村31石余(織田上野介殿御知行高覚),「丹波国郷帳」でも中間村31石余うち田7石余・畑23石余,「氷上郡郷村帳」32石余うち小物成1石2斗余,「天保郷帳」37石余延宝検地高36石余,栗役829本分の銀41匁,桑役は真綿69匁分の銀6匁余,ほか山役があった「丹波志」では,「福本村,前は仲間村と云」とあり,家数23ほとんど畑地ばかりで,大豆・イモ・タバコ・アワ・ヒエ・アズキ・ソバ・ダイコン・オウレンなどを作る(明治5年惣田畑反別取調書上帳)薬師堂はもと仏光寺堂は応永2年再建され,その後補修されているが室町期の様式を残す仏像は藤原期の作,嘉暦3年補修されたときの銘に「真木山村」とある(山南町文化財のすがた)薬師堂の祭日にはチシャノキ(エゴノキ)の枝に紙で農具の形を造り,濁酒とともに供した(氷上郡志)慶応4年新政府に提出した村明細帳に初めて公式に福本村と書かれ,以後福本村と称する... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 仲間村(近世) 王府時代~明治初年の村名島尻方玉城【たまぐすく】間切のうち方言でもナカマという沖縄本島南部,雄樋川下流の東方に位置する村名は「絵図郷村帳」に見えず,嶺村の廃村後,同村内のイリーンダカリ(西村渠,ナコーンダカリともいう)に新設された「由来記」には村名は記されず,富里【ふさと】村のうちに中間城嶽・大中真之殿などが見えるその後,「当時用候表」に村名はあるが,明治13年「県統計概表」には見えないので,明治初年富里村の一部となったと思われる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 仲間村(近世) 江戸初期に見える村名摂津国東成【ひがしなり】郡のうち天正12年8月18日の摂津国東生郡浪速総社生国玉大明神御神名記(生魂社文書/大阪編年史1)に「白山大権現社 伊邪那美命 仲間村座」とあり,当村には生魂社の末社白山権現社が鎮座していたことがわかり,大阪市のうちに比定されるが,詳細は不明... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」