ケータイ辞書JLogosロゴ 成羽荘(中世)


岡山県>成羽町

 南北朝期〜戦国期に見える荘園名。備中国川上郡のうち。成葉とも書いた。地名としては鎌倉期から見え,徳治2年の年紀を有する成羽川水路開鑿願文(備中町笠神所在文字岩銘)に大勧進沙門尊海の住寺として「成羽善養寺」とある。また,永和4年8月3日の旦那売券(熊野那智大社文書)では,十円房重代相伝の「なりわの里」の旦那を直銭15貫文で「とさの僧都御房の子息熊楠丸」に売り渡している。荘園名としては,永徳元年4月7日の足利義満御判御教書(天竜寺文書/美星町史)に「備中国成羽庄〈三村信濃守跡〉事,右為備後国三谷之替所奉寄也,可命為寺領之状如件」とあるのが初見で,当荘内の三村信濃守跡の地が天竜寺に寄進されている。これを受けて同年4月23日には備中国守護石堂右馬入道に室町幕府管領斯波義将施行状が発せられ,さらに同年4月25日には守護代上野兵部入道に守護遵行状が,同年5月27日には現地に打渡状が下達されている。また同年7月21日・7月28日には現地より請文が提出されている(同前)。至徳4年閏5月21日の天竜寺土貢注文(天竜寺文書/香川県史資料編古代中世史料)によれば,当荘に銭310貫663文が課せられている。しかし,明徳元年9月12日の室町幕府管領斯波義将奉書(天竜寺文書/美星町史)によれば,当荘内に勢力を振るっていた三村信濃守は明徳元年に至っても「本主」と号して違乱を続けており,「分郡守護」と推定される細川頼之に違乱を停止させるよう命じている。同3年6月7日の守護渋河満頼に宛てた管領細川頼元施行状でも三村信濃守の違乱停止を命じており,それを受けて6月20日に満頼は吉見弾正少弼にその遵行を命じている。さらに吉見弾正少弼は7月28日に高末勘解由左衛門入道に書状を送っているが,これにより三村信濃守が当荘内の善養寺に立てこもって違乱を続けていたことがわかる。また同年7月29日に守護代吉見氏康から提出した注進状案(同前)からも,三村信濃守が同荘の下地進止権を主張していたことがわかる。同4年10月7日の備中守護細川満之に宛てた室町幕府管領斯波義将奉書案(同前)では,ついに三村信濃守を本主と表現し,三村信濃守余党の当荘居住による押妨を停止するよう命じている。応永26年7月28日には横坂入道に宛てて長講堂段銭の催促停止を命じており(天竜寺重書目録/室町幕府文書集成奉行人奉書篇上),同年7月29日にも高橋駿河入道・庄甲斐入道に同一内容の奉行人奉書が出されている(同前/東大史料謄写本)。翌27年4月19日には守護細川頼重に,文安4年12月24日には守護細川氏久に当荘段銭以下諸公事免除の室町幕府管領細川勝元施行状が出されている(同前)。明徳2年9月28日に書き改められたという西大寺末寺帳に「〈成羽〉善養寺」と見え,永享8年の大和国西大寺坊々寄宿末寺帳にも「ナリロ(ママ)善養寺」が書き上げられている(極楽寺文書/香川県史資料編古代中世史料)。なお長禄2年3月15日の足利義政御判御教書(天竜寺文書)では,「天竜寺領備中国成羽庄」をはじめとする5つの荘園を同時に返付すべき旨を命じている。寛正5年と推定される11月12日の備中国守護代(石川資次・庄経郷)連署触状案(東寺百合文書サ)には安芸国仏通寺一切経勧進奉加荘主19か所の1つとして,「一,成羽庄主」と見える。「親元日記」寛正6年9月14日条(続大成)に引用された天竜寺塔頭雲居庵宛の伊勢貞宗書状に「備州成葉庄代官職事被官福地彦次郎内々望申候」と見え,福地氏が代官職を競望し,請人に問題がなければ同人を補任したらよかろうと伊勢貞宗は述べている。応仁3年4月8日の星原兵衛寄進状(洞松寺文書/県古文書集1)によれば,直銭2貫500文で買得した庄藤四郎の下地田1反を洞松寺に寄進しているが,星原兵衛は当地の住人であった。文明年間初期頃と推定される12月2日の高橋光実書状(石清水文書)では11月9日に,「成羽表」で合戦が行われたことが記されている。永禄2年と推定される3月17日の毛利隆元書状(萩藩閥閲録)によれば,和智誠春・福原貞俊がそれぞれ当地に至り陣替を要求したが却下されている。天正2年と推定される12月25日の厳島神社棚守野坂房顕宛小早川隆景書状(厳島野坂文書/広島県古代中世資料編2)によれば,歳暮祈念の巻数を贈られたことに感謝し,若宮山の陣から手および当地に進攻との戦況報告をしている。同年と推定される12月晦日の小早川隆景自筆書状(小早川家文書)では,当地から三村政親の居城である手の要害(国吉城)を攻撃,陥落させると毛利輝元に報告している。なお天正3年6月頃以降に成立したと推定される「備中兵乱記」(続群22下)には,成羽城主三村親成と嫡子親宣が毛利氏に背き織田方に通じた三村元親に同調しなかったこと,毛利勢が当地で越年し,天正3年正月15日まで滞在したこと,鬼身城を落とした毛利勢が3月1日に当地へ陣を移したこと,毛利勢が4月24日に白地から当地へ陣を移したこと,毛利勢が6月4日に当地から備前常山表に移陣したことが記される。同7年1月23日の小早川隆景書状(毛利家文書3/大日古)には,「去年去々年御調成羽なとのように,悠々と仕たる御陳(ママ)も御座候」と見える。また天正8年と推定される卯月26日の毛利輝元書状(萩藩閥閲録1)では児玉元兼が,同年と推定される9月15日の蔵田元貞書状(同前2)では小早川隆景が当地に逗留していたことが知られる。同10年と推定される4月28日の毛利輝元書状(萩藩閥閲録)によれば,羽柴秀吉の備中侵攻によって冠山が落城したが,口羽春良に国吉城を固守し,松山・成羽両城にも注意を払うように命じている。年未詳正月15日の乃美宗勝宛小早川隆景書状(小早川家文書2/大日古),年未詳7月16日の小早川隆景書状写(萩藩閥閲録3),年月日未詳の毛利輝元書状(山口県文書館所蔵文書/広島県史古代中世資料編5)などに当地の名が散見する。なお「成羽八幡神社旧記」によれば,戦国期当荘には福地村・西野々村・日名村・羽根村(羽山村・小泉村を含む)・臘数【しわす】村があったという(渡辺家文書)。また応永元年の記録を文禄5年に書写したという吉備津宮惣解文(吉備津神社文書/県古文書集2)には川上郡6郷の1つとして「成羽郷 御幣紙少々 玉作石童丸」とあり,成羽郷と関係のある玉作石童丸が御幣紙を吉備津宮に献納している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418334
最終更新日:2009-03-01




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