ケータイ辞書JLogosロゴ 則安村(近世)


岡山県>哲多町

 江戸期〜明治22年の村名。備中国哲多郡のうち。毛利氏支配を経て,のち松山藩領。村高は,慶長年間の検地141石余,元禄年間の検地556石余,「備中至宝記」も556石余,「天保郷帳」570石余,「備中村鑑」556石余,「旧高旧領」570石余。元禄年間の検地では田22町8反余・畑19町2反余。稲作が主で,裏作として麦が栽培されており,ほかに茶・楮などが生産された。地内には町が形成され商業も行われた。明治初年頃は酒造業・醤油醸造業・紺屋・こうじ屋・鍛冶屋・刻煙草屋などもあり,隣村からの人々で盛況であった。特に12月22日の本郷市は正月用品を中心にした日用品の商いでにぎわった。倉敷県,深津県,小田県を経て,明治8年岡山県に所属。同年の戸数120・人口624うち男333・女291(阿哲郡誌)。寺社は猿滝城主横山右馬亮則安の菩提寺跡に寛文10年曹洞宗利済寺が開創され,元禄年間には曹洞宗観音寺が開基されたが,明治7年廃寺となった。神社は創建年不明の三社宮がある。文久2年寺子屋が開設され,男女20数名が学んだ。明治6年啓蒙所が開設され,同8年弘業小学校となり児童数は男66・女36で,同18年尋常弘業小学校,同20年本郷簡易小学校と改称。明治10年則安郵便局開設,同18年廃局。同22年本郷村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418706
最終更新日:2009-03-01




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