ケータイ辞書JLogosロゴ 土師郷(中世)


岡山県>長船町

 室町期〜戦国期に見える郷名。邑久郡のうち。村名でも見える。建仁3年7月日の備前国麦進未進納所惣散用帳(南無阿弥陀仏作善集裏文書)に見える「邑久六个郷」の1つにあたると推定される。初見は南北朝期の康永元年6月28日の年紀を有する備前国一宮社法(吉備津彦神社文書)で「邑久郡土師村ノ法者大夫」と村名で見える。またこれに関連して文明2年6月11日の備前国吉備津宮社務代等神子棹役注進状の指出の連署の1つに「〈邑久郡内〉はぢ大夫」,同3年6月13日の備前国総社家社僧中神前御祈念之事等注文に「土師村之太夫神子」と見える(同前)。応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)には郷名で見え,「不及異儀,致沙汰在所分」の1つに「土師郷」がある。また,室町中期と推定される年月日未詳の備前国衙御料所注文(宝鏡寺文書/東大史料影写本)にも見え,国衙領であったが,当時の備前国衙領は京都の尼寺大慈院を本家としており,足利義政の女が同院に入室していたので実質的には足利家領だった。文明17年閏3月20日の山名政豊感状(田総文書)によれば,同月5日「土師河原」において浦上氏と山名氏が戦い,山名方の田総氏被官世良左京亮が活躍している。「蔭涼軒日録」長享3年3月9日条(続大成)によれば,当郷は京都五山の万寿寺領であったが,万寿寺は領家にあたると考えられる。ただし万寿寺領としての当郷は,応仁の乱後は不知行となっていたという。また明応7年3月22日の土師郷貞宗三郎二郎家助屋敷売券(本蓮寺文書/県古文書集2)の指出に「土師郷貞宗三郎二郎家助」の名が見える。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418733
最終更新日:2009-03-01




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