ケータイ辞書JLogosロゴ 幡多郷(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜室町期に見える郷名。上道郡のうち。播多とも書いた。正和3年4月11日の平政有寄進状(金山寺文書/県古文書集2)に「合壱段者 在幡多郷畠田里十九坪也」とあり,毎年正月7か日夜の不断千手供養法仏性灯油畠として金山寺に寄進されている。下って至徳4年10月28日の備前国幡多郷斗餅田年貢所納状(八坂神社文書)に「はたの郷」と見え,斗餅田年貢500文を納めている。また嘉慶2年12月日の熊野本宮領備前国散在斗餅田下地目録(同前)によれば,当郷の斗餅田は4町9反40代であった。当郷は国衙領で,応永20年と推定される卯月11日の備前国棟別銭免除在所注文(東寺百合文書ヌ)に「庁分三ケ郷」の1つとして「幡多郷」が見える。「蔭涼軒日録」寛正3年4月14日条に「慶雲院領備前播多郷喬都寺,為庄主無沙汰別而被仰付之事」,また同6年12月5日条に「寿徳院被成慶雲院,以備前播多郷為御寄進,而可被成御判也」とあり,足利義勝の菩提所である相国寺慶雲院に,おそらくは当郷の領家職が寄進されていることから,国衙領とはいえ,実態は足利家領であった(続大成)。しかし翌年には守護山名氏や国人松田氏の被官らの違乱によって年貢は未進となっている(同書文正元年6月29日条・同年7月22日条/続大成)。また同書長享2年8月3日条・5日条(続大成)などによれば,当郷代官職は島津亮時に預け置かれている。その後,同書延徳3年4月20日条(同前)によれば,島津北堂が「波多郷代官職」を召し放たれ,幕府に訴訟を起こしている。また同書,同年4月25日条(同前)によれば,当郷の代官職は島津氏が無沙汰であるという理由で勝田氏に改替されている。しかし同書同年5月11日条・15日条(同前)によれば,詳細は不明であるが,再び島津北堂が当郷代官職となったようである。また文明8年正月18日には,難波秀房によって「幡多之郷之内神乃七坪」が牛窓法花堂に沽却されている(本蓮寺文書/県古文書集2)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418754
最終更新日:2009-03-01




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