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- 八幡町(近世)とは
「八幡町(近世)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世)
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![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治22年の城下町名 |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~昭和42年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は駿府城下96か町の1つ駿府城下東部にあたる東海道府中宿の南側に位置する当町は東海道で南に折れて徳川家康の霊廟のある久能山に通じる久能街道の入り口にあたり,有渡【うど】郡八幡村に近いところから八幡小路ともいった貞享3年の家数は本家28・借家13(府内時之鐘鋳直申ニ付入用集銭帳)元禄5年の家数29・人数143,うち山伏8・比丘尼11(元禄5年申2月駿府町数并家数人数覚帳)元禄年間創設の駿府定火消役では出火の際南安東村御蔵と華陽院に詰めることになっていたが,のち久能山近隣出火注進役として毎月1人あて,見回役として前浜辺を巡視することになった文政4年創設の町方百人組合火消では府中4組のうち東組に所属(旧版静岡市史)弘化~嘉永年間の戸口49(駿河国雑志)浄土宗円光院は徳川家康駿府在城のおり,当寺開山の宗円和尚が病人に施薬を命じられた時に賜った御紋付きの薬研を伝え,家康が月見の席をはったので月見山と号したという(旧版静岡市史)また身寄りのない者や無宿者などが死んだ時,その町内から銭100文を添えて送りこむと埋葬してくれたので無縁寺とも呼ばれた(静岡市史話と伝説)ほかに永禄年間創建の臨済宗安南寺があるさらに願人長屋と称して妻帯肉食の修験者である願人の居住する大蔵院があり,「駿国雑志」には大岡越前守忠相の尋ねに対し願人の由来を答えた「口上の覚」が載せられている明治5年上八幡町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治5年の町名江戸期は甲府城下上府中(古府中)26町の1町武田氏の時代に築営された町の1つで,甲府築城にともない新城下に組み込まれた町人地甲府城の西北,外郭に位置し,東の御崎町,西の塩部村に挟まれた東西の通り町名の由来は,甲府城築城により城の乾の守護神として武田氏館跡にあった御崎稲荷明神を移築するに際し,古府中の八幡社近傍にあった八幡の地名を御崎神社の隣接地へ移したことによるといわれ,古府中の方にはその後古八幡の地名が残る主として農民が居住し,戸口は寛文年間46人(甲府御用留/甲府略志),貞享4年21戸(上下府中間別/同前),享保5年52人(上下町中人数改帳/甲州文庫史料2),宝暦12年27戸(甲府町中人別改帳/同前),文化初年21戸・31人,うち男15・女16(国志),天保7年20戸・25人(甲府上下町屋敷数人別改覚/甲州文庫史料2)町人足役を勤める大助32町の1町で,年間の人足出役基準は4人明治3年の戸数6(甲府町方家数人数取調書)同5年御崎町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治22年の町名... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治7年の町名福井城下のうちはじめ京町組,のち本町組の1町足羽【あすわ】川右岸に沿う町で,北は山町,東は木町と接する慶長年間の御城下四ツ割図(松平文庫)に町名が見え,家数33を数える町域の西端に八幡神社が鎮座し,その門前町として形成されたことから町名が生じた同社は,文明年間朝倉氏が一乗谷に居館を造営した際宇佐八幡宮を勧請して創建したものと伝えられる慶長6年結城秀康が入国して北庄城を構築した時,同社を一乗谷からこの地へ移建して保護を加えたが,宝永5年の火災で焼失し,その後御舟町に社地を移されたが,当地の町名は残された正徳3年頃の御城下惣町間数帳には「八幡町 五拾四間半,木町ヨリ八幡元屋鋪迄,但道幅三間半」と記されるなお,八幡元屋鋪とは八幡神社の旧社地を指す明治7年町名改正時の戸数45同年照手上町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治2年の町名柳馬場通御池下ルの町寛永14年洛中絵図に「八幡町」とあり,以降近世を通じて変化はない町名の由来は,御所八幡宮の境内域にあることによる当町には,諸道具目利奥野由無,数寄屋灰屋の寿庵(京羽二重),聚楽より移ってきた,上方代官衆の1人後藤覚右衛門,能の笛師浅野久右衛門(宝永版京羽二重),奉書紙などを扱う万紙問屋越前屋市郎兵衛(京羽二重織留)がいたまた,天保頃には画家東洋(平安人物志),幕末には医師浦野吉胤(京はつね)が住した上艮組の太郎助廿八町組に属し,軒役は37軒半役また祇園会には,黒主山の寄町として,5斗の地ノ口米を納めた明治2年,柳馬場通に位置することから柳八幡町と改称... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」
![]() | 八幡町(近世) 江戸期~明治4年頃の町名名古屋城下の1町武家町の1つ伝馬町筋の南側,東西に延びる袋町筋の西端に位置する西側は堀川沿いの葭町に接する町名は広井八幡宮(現泥江県神社)の門前であることに由来する広井八幡町ともいい,門前は享保8年町家となったが,その外は武家屋敷地であった(名古屋府城志)明治4年頃袋町の一部となる... |
出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」