ケータイ辞書JLogosロゴ 浜野村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。備前国御野郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。村高は,「領分郷村高辻帳」1,063石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,253石余。また「備陽記」では,高1,063石余,反別68町1反余,家数135・人数794,猟船17。加子浦の1つで,夫役25人を課せられていた。白魚・鰻・蜆が獲れ,特に「浜野しじみ」は有名であった。しかし沖新田干拓の進行により,漁場が縮小し,漁師渡世ができなくなったため,干拓地を藩に要求した差上げ書が残る(撮要録)。なお初期の干拓は,堤防外を村の切り添え新田のように干拓していたようで,慶長年間頃移住し,寛永年間以前には耕作も開始されたという(福浜村誌)。のちには南方の干拓村の親村となった。地内安宅は,池田忠継の時代,徳川家康から下賜された大安宅船日本丸・紀伊丸・伊勢丸・肥後丸・吉田丸などを繋いでいた場所で,地名も安宅船に由来すると伝える。また延宝2年には,藩が地内川沿い南北6町に藪土手を築き,内に水を湛え,舟入を造成。1,800石積みの藩主お召船をはじめ,大小230艘の船を停泊させた。用水は西川用水掛りで,同用水から十日市村で分かれた東川溝が村内を貫く。のち用水路には川船を通し,荷物・泥土・肥料用糞尿の運搬が許可された。南北朝期頃,多田頼貞が来住して日蓮宗に帰依,松寿寺を建立。同寺が備前法華の最初と伝える。松寿寺は江戸期に入ると火災で消失し,さらに藩主池田光政による日蓮宗不受不施派弾圧も始まったが,同派への信仰は陰で信仰する内信の形で伝えられた。また安宅に妙法寺がある。寛文11年平井村の日蓮宗妙楽寺の分寺として建立という。明治4年岡山県に所属。同22年福浜村の大字となる。
解説文を自分にメール
メアド:Milana@docomo.ne.jp

(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418850
最終更新日:2009-03-01




ケータイ辞書 JLogosトップ