東幸崎村(近世)
江戸期〜明治22年の村名。備前国邑久【おく】郡のうち。岡山藩領。幸島新田の東部が貞享4年の検地で幸崎村と称され,元禄4年さらに東幸崎村・西幸崎村に分村して成立。宝永4年の幸島新田惣畝数高物成免斗代では高1,508石余・反別80町7反余。「天保郷帳」では「幸島新田之内東幸崎」とあり,1,531石余,「旧高旧領」も同高。万延元年幸島新田調による家数79,人数332うち男173・女159。用水は吉井川から取水した大用水が東部を南流し,その支流の中用水が中央部を西流している。また北部を清野川,南部を脇浦川が西流する。天保6年宿毛・下阿知両村と大用水の取水を巡って水論が発生,新田側農民は,宿毛側の用水は本来千手池掛であるのに同用水に樋を設け取水していると抗議した。新田側農民の主張が原則的に認められるとともに,平和的に宿毛側へ譲水の措置をとることとなった(撮要録)。天保3年の名主記録によれば,生活補強のために村内17名が船働き・大工・木挽の出稼ぎの許可を申請している。天保8年当村に生まれた田淵耘煙斎は,寺社建築専門匠師として,門弟60余人を数え,大坂の今宮神社など85棟の建築にかかわり「関西大棟梁」と呼ばれた。嘉永年間寺子屋清江亭開設。明治4年岡山県に所属。同5年の学制施行により25番小学新設。同16年戸長役場を設置。同22年幸島村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7418973
最終更新日:2009-03-01