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「平野町(近世~近代)」の関連ワード⇒ 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

平野町(近世~近代)


江戸期~昭和45年の町名江戸期は岡山城下の1町,町人地明治11年岡山区,同22年からは岡山市の町名城下の南部,外堀の外に位置する通り筋南北の町並み東は上内田町,...

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[最終更新日:2009-03-01/JLogosid:7419159]
関連項目: 赤田組(近世) 飯詰組(近世) 石浜村(近世) 

角川日本地名大辞典(旧地名編)

日本地名大辞典に収録されているものの中から、現在以前のものを再編。

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平野町(近世~近代)

江戸期~現在の町名江戸期は唐津【からつ】城下の1町町田川左岸,城下町の中央部に位置する唐津十七か町の1町で内町のうちはじめ下級武士の居住する武家地であったが,のち職人などが移住し町人地となる築城時の十二か町に含まれないので,惣行事・月番は置かれていない文化年間頃の町筋は東西1町26間,古来本軒41,当時人数131(男74・女57),引合五人組48人(町年寄2・組頭2・紺屋1・医師1・瓦師2),伝明寺,山伏千量院があり,古来馬札1で当時はない(松浦拾風土記)伝明寺は真宗東本願寺派名護屋六坊の1つで,木浦山千量院は登山派の御目見山伏(唐津拾風土記抄)伝明寺は明治初期に廃寺となり新町の安浄寺が管理したが,同20年頃には撤去された白玉稲荷があり千量院が宮守をしていたが,のち唐津神社に合祀された明治初期の絵図には木村姓の家が8軒ほど見え,いずれも大工職寛政11年当町ほか9町は,辻番所2か所と10月から3月までの自身番の設置は負担が大きいので,辻番所1か所は夜番とし自身番も辻番所で兼ねたいと藩に願い出ている当時は町火消し草場支配組に所属(諸事控/唐津市史)幕末伊勢講の御師高向二頭太夫は当町に出張所を設置した安政年間頃の町年寄は伊藤恒左衛門・渡辺重右衛門,最後の町年寄は伊藤常左衛門・木村市兵衛(旧藩制ヨリ伊万里県マテノ諸控/県史)明治元年の軒数59・人数167(唐津市史)同2年当町の山車謙信の兜が11番曵山として富野武蔵により製作された同3年の藩制改革で唐津城下の陌正に任命された細田翁助は当町に役場を設置した「明治11年戸口帳」では唐津町のうちに「平野町」と見え,戸数43・人口161同9年当町の木村幸助が西端の城壁を抜け西寺町・唐津村字熊原へ至る新道を造成した明治22年唐津町,昭和7年からは唐津市に所属明治22年から昭和22年までは大字唐津のうち明治30年の人口331(唐津市史)大正4年の戸数44・人口323世帯数・人口は,大正14年55・302,昭和5年50・285,同35年82・340,同41年79・271現在は江戸期の道幅のまま明治期の建物が多く残り,小売店が点在している

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

平野町(近世~近代)
江戸期~現在の町名新町通正面下ルの町南北に通る新町通に面する両側町寛永14年洛中絵図や寛文12年洛中洛外大図には「三丁目」,延享3年の「寺内歳時記」(村上文治家文書)には「新町三丁目」,天明6年洛中洛外大図には「新町通三丁目」と記すが,「宝暦町鑑」には「平野町」と記す当町は西本願寺寺内が開かれて以来の古町の1つで,毎年11月の法事には他町より多く提灯2張を代銭納していた(寺内歳時記)また地子負担をする地子屋敷町の1つ(同前)「坊目誌」によれば,当町東側に妙行寺があったというが,「府地誌」は東若松町にあったとする同寺は僧雲晴の開基であったが,明治16年廃寺となる同寺は堂達であった(表処置録/村上文治家文書)米屋仲ケ間の能登屋利助が居住(表処置録)江戸期は西本願寺寺内町の艮組,明治2年の町組改正から下京【しもぎよう】19番組,同5年第23区と改称,同25年第23学区に編成明治12年下京区平野町,同22年京都市下京区平野町となり現在に至る同29年4月浄土真宗本願寺派の明覚寺,同31年4月同派金宝寺が本願寺門前町より移転また明治45年福島病院が開設(京都市統計書)世帯数・人口は,明治44年60世帯・243人,大正14年75世帯・298人,昭和40年65世帯・317人人口増減率(昭和40~50年)38.2%減...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

平野町(近世~近代)
江戸期~昭和39年の町名江戸期は金沢城下町のうち,地子町の1つ明治22年からは金沢市の町名もとは川上新町の一部川上平野町とも呼ばれた犀川【さいがわ】の上菊橋の上流右岸に位置する文政6年の「金沢町奉行より出候町名」では川上新町より平野町として成立したとある住民は人夫などの日稼ぎ,農作物売りなどをしていた「皇国地誌」には「上富山町ノ南ニ並行ス弐町三拾七間許幅凡弐間又一町東南ニ連リ,犀川縁ニ並行ス壱町五拾間許,幅広キハ弐間狭キハ三尺」と記す明治4年の戸数78大正5年の戸数77・人口214昭和30年の世帯数73・人口318同39年城南1~2丁目となる...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

平野町(近世~近代)
江戸期~現在の町名江戸期は姫路城下の1町町人地明治初年~明治22年は姫路を冠称姫路城の南東,中濠に沿う南北の町筋町名の由来は,もと平野村からの移住者による町であることによる(市制三十年姫路市史)江戸初期から見える町(多木文化振興会蔵姫路城下図)元文5年の家数45,地子銀914匁(穂積家文書)明治14年の戸数58・人口242,宅地3,674坪(播磨国地種便覧)同22年姫路市に所属大正元年の戸数73(姫路紀要)世帯数・人口は,昭和2年90・308,同35年50・225同56年区画整理により一部が坂田町・元塩町となり,同年北条口・坂田町・茶町・下寺町の各一部を編入...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

平野町(近世~近代)
江戸期~現在の町名尾張国愛知郡のうち押切村の一部名古屋城の西江戸期は美濃路沿いの押切村の町通りと栄出町の境から南へ入る小路にあたる(尾府全図)町名は当地に住む平野小市の姓に由来する(徇行記・名古屋市史)明治11年押切村が平野町・押切町・柳町・南押切村・北押切村に分離し,当町は名古屋区に編入同22年名古屋市,同41年からは同市西区に所属昭和16年一部が縁場町・菊ノ尾通・大道町となり,南押切町・南押切の各一部を編入...

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出典:KADOKAWA「角川日本地名大辞典(旧地名編)」

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