ケータイ辞書JLogosロゴ 福島村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。備前国御野郡のうち。寛永2年干拓の新田村(備陽国誌)。貞享年間から本村となる(備陽記)。村高は,「領分郷村高辻帳」991石余,「天保郷帳」1,216石余,「旧高旧領」1,032石余。「備陽記」では,高991石余,反別59町7反余,家数56・人数346,枝村に尾上新田があり,朱印高外として164石余,反別13町余,家数2・人数2とある。尾上新田(現岡山市千鳥町)は延宝6年津高郡尾上村の庄屋らによって干拓され,福島村の枝村として福島村名主の支配下に置かれた。当村は城下町の河港京橋の外港としても機能した。本来は水深の浅い地であったが,児島湾の水上交通の要にあたる地理的条件が藩営による築港を進めさせた。寛文6年旭川土手筋に川口番所(福島番所)と奉行屋敷が置かれ,同12年藩主池田光政の発願により,航行の安全のため,藤井村の住吉宮を,寛文6年の寺院淘汰により廃寺となった持玄院観音堂跡に勧請した。浜筋には海運業に従事する者の住居などが列状に立地し,福島の町並みの維持に対する援助は藩が行い,貞享2年福島村町並繕奉行が置かれている。延宝2年浜野村に舟入ができ,藩船は移動,当村は民間の船中心となった。海上輸送の船舶は水深の浅い旭川を遡行できず,積荷は沖合の水尾木で小船に積み替えられ,城下まで輸送された。また旭川上流諸藩の倉庫が設けられており,川口請合役のうち4人が代々蔵元を勤めた。明治2年福島番所が廃止され,川口請合役も廃止されたが,同年御番所跡に物産会所が設立された。同4年岡山県に所属。同6年物産会所に代わって帆別船取立所が設置されたが,同14年廃止となり,旭川の航行は自由になった。大阪定期汽船が停泊し,最盛期を迎えるが,次第に旭川河口の土砂の堆積が進み,明治中頃には大型船の福島までの航行は困難になり,対岸の三蟠港が港としての機能を果たすようになった。ただし三蟠港から岡山京橋までの上荷瀬取業は福島の業者が占有した。明治8年尾上新田を合併。同22年福浜村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419255
最終更新日:2009-03-01




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