ケータイ辞書JLogosロゴ 藤井村(中世)


岡山県>岡山市

 鎌倉期〜戦国期に見える村名。備前国邑久【おく】郡のうち。荘園名でも見える。文永元年9月30日の弘法寺衆徒等契状(弘法寺文書/県古文書集3)に「藤□(井)住人観蓮房」とあり,観蓮房は弘法寺の結界を侵したという。また,「一遍聖絵」「一遍上人年譜略」によれば,弘安元年冬一遍は「備前国藤井といふ所の政所におはして」同地の領主の妻が聴聞し,出家したという(続群9上)。村名の初見は元亨4年4月19日の備前国鹿忍庄下司・同豊原庄雑掌和与状案(安仁神社文書/県古文書集3)に「藤井村」とあり,鹿忍荘下司の藤井氏と豊原荘雑掌は両荘の境界付近に位置する「大山・千手・藤井・鵠浦」について正応年間より相論を続けていたが,この年「藤井村四至〈東限柳□煎田浜,但除千手寺々領,南限清谷長尾大道,西限庄戸江,但除野串山,北限阿知鹿忍大道〉」と鵠浦は藤井氏,大山と千手は豊原荘方が進止することで和与が成立した。室町期になると,応永4年7月8日の弘法寺寄進田願主等回向文(弘法寺文書/同前)に里分の1つとして「一段廿代〈藤井〉沙弥尼浄智」「一段為比丘尼寿堅〈藤井下司〉」と見える。また応永7年6月15日の沙弥道保寄進状(同前)によれば,「藤井村」の田地2反が弘法寺阿弥陀堂不断灯明料として寄進されている。なお「結番日記」文明9年4月19日条(続大成)には「小笠原兵部少輔殿知行備前国藤井庄」と荘園名で見え,小笠原兵部少輔が知行していた。天正13年6月9日の万代郷兵衛豊秀寄進状(弘法寺文書/県古文書集3)によれば,当村の田地30代が弘法寺に寄進されている。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419330
最終更新日:2009-03-01




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