ケータイ辞書JLogosロゴ 南方村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治22年の村名。備前国上道郡のうち。宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領。なお慶長5年11月11日の小早川秀秋知行方目録(岩田左平氏蔵文書/東大史料影写本)によれば,木下信濃守へ南方904石余などが宛行われている。また同18年12月4日の池田忠継判物(昌蔵寺文書/福井県史資料編4)では,昌蔵寺領として当村のうち194石余が与えられている。村高は,「領分郷村高辻帳」1,231石余,天保年間の草ケ部組村村高帳(安井家文章)で1,329石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに1,400石余。なお「備陽記」では,高1,231石余,反別81町3反余,人数849・家数137,池10,枝村に室山・寺坂・焼剥がある。商業については,弘化5年病身の惣八郎が小商いを願い出て許可されており,また他の者には菜種油の賃絞りの許可も出されている(難波家文書。)用水は,池のほか旭川から取水した祇園用水を利用。なお百間川の築造や倉安川の完工により,村内を流れる庄内川下流域の排水が悪くなり,当村より下流の長利・中川・益野3か村との間でたびたび水争いが発生した。天保7年には豪雨時の排水を巡って南方村の者が長利村の者に川へ投げ込まれる事件が起こっている(同前)。神社は中山八幡宮。寺院は,寛文年間に東ノ坊・持法寺が廃寺となり,真言宗安楽院・報恩院・滋眼院が残る。明治4年岡山県に所属。元治元年藤田半次郎が寺子屋を開設していたが,明治8年寺坂に古津小学校の支校を設置。同22年古都村の大字となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419724
最終更新日:2009-03-01




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