ケータイ辞書JLogosロゴ 三野新荘(中世)


岡山県>岡山市

鎌倉期〜室町期に見える荘園名備前国御野郡のうち鎌倉初期には郷名で見え,建久9年12月日の後鳥羽院庁下文写(東大寺続要録)に野田荘の四至として「南限公領三野新郷并新堤保」「西限公領三野新郷并大安寺庄」とあるまた建仁3年7月日の備前国麦進未并納所惣散用帳(南無阿弥陀仏作善集裏文書)の別納の1つに「三野新郷七石二斗九升」とある荘園名としては,嘉元元年11月日の三野新荘雑掌申状(県史未収名田庄熊野八幡宮大般若経紙背文書)に「備前国三野新庄」とあるのが初見で,当時当荘は長講堂領になっていたと推定され,寺用米を運び取ったとして目代光仏が当荘雑掌より訴えられているまた同時期と推定される年月日未詳の法眼某書状(同前)によれば,年貢減免について相論があったらしい室町期になると,応永14年3月日の宣陽門院領目録(八代恒治氏所蔵文書集)に新寄進地の1つとして「備前国三野新庄〈稲木庄地頭替〉青蓮院殿 年貢地蔵講米」と青蓮院門跡の管領する荘園として見えるまた「教言卿記」応永17年2月24日条(纂集)によれば,当時は盛都聞が300貫で青蓮院門跡と請負いの契約を結んでいた応永20年8月日の備前国棟別銭沙汰并無沙汰在所注文案(東寺百合文書ヌ)の付箋に棟別銭を徴収した7か所の1つに「三の新庄」が見える嘉吉3年卯月26日の尋祐下知状案(青蓮院文書/広島大学所蔵猪熊文書1)によれば,長妹三郎左衛門尉に「三野新庄内出地」を預け置いているまた「政所賦銘引付」(室町幕府引付史料集成上)によれば,文明7年11月22日には松田元成が,「三野新庄公文職」を「伊勢先御母」より買得したとして,幕府に安堵を求めている慶長10年の備前国高物成帳(備陽記)によれば,御野新荘を現在の岡山市西長瀬・北長瀬・上中野・下中野・今村・西市・京殿付近としており,この付近に比定される
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419799
最終更新日:2009-03-01




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