ケータイ辞書JLogosロゴ 宮内(中世)


岡山県>岡山市

 室町期から見える地名。備中国賀陽郡のうち。延徳3年10月に備中国で庄元資と守護方と合戦し,元資は守護細川勝久の家子・被官など500人を討ち死にさせたが,「蔭涼軒日録」11月2日条には「松田菅者打入宮内之倉」と記されている。ここにみえる宮内は当地のこととみられるが,これによれば,松田菅者は宮内の倉に打ち入り,家財を運び取ったという。ここに守護方の倉があったと考えられる。大永6年12月13日の備中国吉備津宮領坪付注文(吉備津神社文書)に,「一所一段〈宮内〉高安前」と見える。毛利氏が伯耆国を攻撃していた永禄7年と推定される正月13日の毛利元就書状写(萩藩閥閲録3)は,備前国児島において上野氏と争っていた三村家親が毛利氏の命令によって,月末までには当地へ移動し,いったん備中国松山城へ帰った後,伯耆国へ出陣することを約束したことが見えている。永禄年間頃と推定される12月5日の供野修理進光盛書状(吉備津神社文書/県古文書集2)には,当国撫川郷に対しては段米が賦課されるが,板倉村の衆作分とともに当地については,決して納入しないということを中番衆に伝えている。下って,天正10年3月日の羽柴秀吉禁制写(同前)は「備中国 宮内」に下され,軍勢の濫妨・狼藉などを禁止している。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419811
最終更新日:2009-03-01




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