ケータイ辞書JLogosロゴ 宮内村(近世)


岡山県>岡山市

 江戸期〜明治8年の村名。賀陽郡のうち。「備中誌」では,慶長・寛永年間頃までは板倉村のうちとされている。はじめ庭瀬藩領,延宝7年幕府領となり,その後幾度か支配変遷を経て,元禄12年から再び庭瀬藩領。吉備津神社領もある。「大和田重清日記」(広島県史古代中世資料編1)文禄2年条には,「せなたヨリ宮内迄十里……宮内ヨリカゝト(香登)迄七里」と見える。大和田重清は当地に宿泊して吉備津神社にも参拝しているようである。中世には,山陽道が板倉(近世には板倉の宿と呼ばれる)を通らないで,当地を迂回していたものと考えられる。文禄3年12月13日の那須資清覚書(田村大宮司家文書/筥崎宮史料)に,「備中国宮内持観寺住持法印増舜」と見え,当地の僧が那須氏の筥崎宮修理の助力をしている。慶長6年4月6日の加藤正次・大久保長安・彦坂元成連署奉書(吉備津神社文書/県古文書集2)には,備中国神領の書出として,「都宇郡宮内村之内」の160石が徳川家康より寄進されている。村高は,「備中至宝記」1,589石余,「天保郷帳」1,752石余,「備中村鑑」1,592石余,「旧高旧領」では庭瀬藩領1,592石余・吉備津宮社領160石と記されている。春秋2度の市が立った。また吉備津宮参拝客の休息所でもあり,旅籠・料理屋などが置かれたほか遊郭もあり,備前から宮内通いをする風流人も多かった。なお中田姓の大庄屋が当村に居住していた。広瀬藩領は庭瀬県,吉備津宮社領は倉敷県からともに深津県を経て,明治5年小田県に所属。同6年宮内学校(のちの鯉山小学校)を設置。同8年真金村の一部となる。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7419812
最終更新日:2009-03-01




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