ケータイ辞書JLogosロゴ 吉永北方村(近世)


岡山県>吉永町

江戸期〜明治4年の村名備前国和気郡のうち八塔寺川が金剛川に合流するあたり,両川の河間に形成される崖錐東部に位置する村名は,中世吉永保の北側に位置することから,はじめ北方村と称し,のち吉永北方村と称した宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領村高は,「領分郷村高辻帳」230石余,「天保郷帳」「旧高旧領」ともに264石余なお「備陽記」では,高230石余,反別17町9反余,家数45・人数231また化政期の和気郡手鑑(和気郡史)では,高230石余・又高33石余,田13町6反余・畑4町2反余,家数49・人数188明現宮・天神宮と辻堂があるまた明石景之が城主と伝える古城跡もある天明2年天神講が開かれた儒学者武元君立らによる庶民向けの講義所として知られる幕末には,明石文中宅で寺子屋時習学舎も開かれた明治4年岡山県に所属同年北方村と改称
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420326
最終更新日:2009-03-01




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