ケータイ辞書JLogosロゴ 脇谷村(近世)


岡山県>吉永町

江戸期〜明治8年の村名備前国和気郡のうち和意谷川最上流域に位置する村名は,神根【こうね】の谷の脇に立地することによるという宇喜多氏,小早川氏の支配を経て,慶長8年から岡山藩領寛文7年から村内の一部が藩主池田氏の墓所として造成され,その管理費財源などのため和意谷新田が開発された村高は,「領分郷村高辻帳」46石余,「天保郷帳」48石余,「旧高旧領」46石余なお「備陽記」では,高46石余,反別2町8反余,家数6・人数37また化政期の和気郡手鑑(和気郡史)では,高46石余,田1町1反余・畑1町4反余,家数12・人数46明治4年岡山県に所属同5年の学制施行により民家を仮用して100番小学が置かれたが,翌6年樫村中山妙見社へ移転した同8年和意谷村の一部となる
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420431
最終更新日:2009-03-01




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