ケータイ辞書JLogosロゴ 相合村(中世)


広島県>吉田町

 戦国期に見える村名。安芸国高田郡のうち。明応7年10月5日の毛利弘元書状に「あいあふてつくりのうち一ちやう八たん,山てくに事もりなか名,むめちよにまいらせ候なり」と見える(閥閲録125)。天文9年9月からの毛利元就と尼子詮久の戦闘の際,11月26日に「於相合搦人数」として40余人の名が郡山城諸口合戦注文に見え,毛利元就郡山籠城日記には,翌10年正月3日に「於相合口合戦,敵十余人討捕候,味方一人茂無越度候」と見え,「正月三日於相合口合戦人数」として11人の名が郡山城諸口合戦注文に見える(毛利家文書)。また,同10年正月4日付で毛利元就から赤川又七郎に宛てて「正月三日於相合尼子衆と合戦之時,太刀打高名神妙候」という感状が出され(閥閲録遺漏2-1),同日付で同様の感状が中村助五郎にも出されている(閥閲録97)。元就から小早川興景にも同日付で「於相合口合戦候,敵一人討取候,此方手負共候へとも聊不苦候」との書状が出されている(小早川家文書)。次いで同11年2月10日付で「今度雲州衆取出ニ付而用脚申付候処馳走悦入候」として「相合預り田壱町」が元就から児玉四郎右衛門尉元保に宛行われている(閥閲録69)。弘治4年8月3日,元就から児玉就久に「田壱段 屋敷也 相合之内」が遣わされている(同前101)。天正4年2月9日には毛利輝元から粟屋元貞に対して「相合之内実時半名之事」などが給地として確認されている(同前59)。慶長3年9月11日には「相合之内弐石四斗九升」が毛利輝元から児玉元昌に宛行われている(同前100)。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420466
最終更新日:2009-03-01




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