ケータイ辞書JLogosロゴ 青近郷(中世)


広島県>甲山町

 鎌倉期〜南北朝期に見える郷名。備後国世羅郡大田荘桑原方のうち。建久元年6月の僧鑁阿置文に村々別作として「青近ノ釜田」が掲げられている。また明徳元年10月の野山年預明実大田荘取帳目録によれば「青近村四帖」とあり,鎌倉前期の嘉禎2年検注の際に当郷の取帳が作成されていた。大田荘では鎌倉期〜南北朝期にかけて領家高野山と地頭三善氏の間でしばしば所務相論が繰り返されたが,多くは,和与によって決着している。正安3年の和与では伊尾村公文職に付属して当村公文も領家の進止とされた。南北朝期,貞和4年の和与では,地頭大田顕連は「青近郷地頭職」を領家に移譲しており,以後,当郷は領家の一円知行地となった。しかし,なお,翌5年には地頭の代官等が青近・小世良に打入り所務を違乱したとして雑掌の訴えるところとなっている。南北朝期には三善氏は没落し,大田荘は守護や在地武士らによって押領されることが多くなった。永徳元年10月21日の守護山名時義書状によれば,大田荘では下地の半済が行われており,青近村は他の村々とともに武家分となっていたらしい。応仁の乱以降には守護山名氏の領国の中に組み込まれてゆき,やがて戦国大名毛利氏の領国下に入ったとみられる。なお,現在の甲山町青近の八幡神社所蔵懸仏の墨書銘に「奉懸青近八幡宮 御正体之事……文明六年甲午九月吉日」とある。
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(C)角川日本地名大辞典「旧地名」
JLogosID:7420481
最終更新日:2009-03-01




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